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「ハリー・ケリー・ジュニア」の版間の差分

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== 来歴 ==
== 来歴 ==
'''人生とキャリア'''

西部劇映画で活躍した名優[[ハリー・ケリー]]の息子として[[カリフォルニア州]][[サンタクラリタ]]・{{仮リンク|サウガス (カリフォルニア州サンタクラリタ)|label=サウガス|en|Saugus, Santa Clarita, California}}に生まれ、両親が所有するカリフォルニアの牧場で育つ<ref name="imdb-bio" />。
西部劇映画で活躍した名優[[ハリー・ケリー]]の息子として[[カリフォルニア州]][[サンタクラリタ]]・{{仮リンク|サウガス (カリフォルニア州サンタクラリタ)|label=サウガス|en|Saugus, Santa Clarita, California}}に生まれ、両親が所有するカリフォルニアの牧場で育つ<ref name="imdb-bio" />。


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退役後、歌手を目指すが上手く行かず<ref name="imdb-bio" />、俳優に転向し、1946年に映画『''[[:en:Rolling Home (film)|Rolling Home]]''』の端役でデビューする<ref name="allmovie">{{Cite web|url=http://www.allmovie.com/artist/p10865|title=Harry Carey, Jr. movies, photos, movie reviews, filmography, and biography|publisher=[[:en:AllRovi|AllMovie]]|language=英語|accessdate=2013-04-06}}</ref>。その後、父が出演した映画『[[赤い河]]』(1948年)に出演したが父との共演シーンはない。なお、1946年にクランクアップしたが版権で揉め、公開は2年後になった。


1947年に父が亡くなると、父がかつて主演したサイレント映画『{{仮リンク|恵みの光|en|Marked Men (1919 film)}}』(1919年)の[[リメイク]]作『[[三人の名付親]]』(1948年)で主役の1人に抜擢される。このリメイク作は、『恵みの光』の監督でもあるジョン・フォードが親友ハリー・ケリーに捧げた作品である<ref name="imdb-bio" />。この作品以降、フォード監督作品の常連俳優として多くの作品に出演するようになる。
1947年に父が亡くなると、父がかつて主演したサイレント映画『{{仮リンク|恵みの光|en|Marked Men (1919 film)}}』(1919年)の[[リメイク]]作『[[三人の名付親]]』(1948年)で主役の1人に抜擢される。このリメイク作は、『恵みの光』の監督でもあるジョン・フォードが親友ハリー・ケリーに捧げた作品である<ref name="imdb-bio" />。この作品以降、フォード監督作品の常連俳優として多くの作品に出演するようになるが、他の監督の作品では扱いが悪く、クレジットされないこともあった


1950年代以降はテレビを中心に活動し、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にテレビ分野で星を持つ。
1950年代以降はテレビを中心に活動し、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にテレビ分野で星を持つ。また、西部劇を中心に脇役から端役まで数多くの作品に出演し、1970年代にはマカロニ・ウエスタンにも出演した


2012年に老衰で死去<ref>{{cite news|title=Western movie character actor Harry Carey Jr. dies at 91|author=Alex Dobuzinskis|newspaper=[[ロイター|Reuters]]|date=2012-12-28|url=http://www.reuters.com/article/2012/12/29/entertainment-us-usa-people-harrycarey-idUSBRE8BS02H20121229|language=英語|accessdate=2013-04-06}}</ref>。
2012年に老衰で死去<ref>{{cite news|title=Western movie character actor Harry Carey Jr. dies at 91|author=Alex Dobuzinskis|newspaper=[[ロイター|Reuters]]|date=2012-12-28|url=http://www.reuters.com/article/2012/12/29/entertainment-us-usa-people-harrycarey-idUSBRE8BS02H20121229|language=英語|accessdate=2013-04-06}}</ref>。

'''マカロニ・ウエスタンに出演'''

イタリア映画界が主導で製作した疑似西部劇をマカロニ・ウエスタンと呼ぶ。1960年代からは[[ヘンリー・フォンダ]]・を筆頭に[[ロッド・キャメロン]]、[[リー・ヴァン・クリーフ]]、[[ジョン・アイアランド (俳優)|ジョン・アイアランド]]、[[ジャック・イーラム]]、[[ウディ・ストロード|ウッディー・ストロード]]、[[ダン・デュリエ]]等のハリウッド西部劇のベテラン俳優が続々とマカロニ・ウエスタンに出演する様になった。

ケリー・ジュニアは彼等に遅れて1971年の『ザ・アウトロー/風来坊II』(未/ビデオ)の脇役が最初の出演である。翌年にはユーゴで撮影された『自転車紳士、西部を行く』(1972年/未/テレビ放映)でも『ザ・アウトロー~』で組んだ[[エンツォ・バルボーニ]]監督と主演の[[テレンス・ヒル]]との再仕事だった。また、ハリウッド俳優の[[グレゴリー・ウォルコット]]も出演していた。

ゴールド・ラッシュに沸くアラスカを舞台にした[[チャールトン・ヘストン]]主演の『野性の叫び』(1972年)が製作されると、[[ジャック・ロンドン]]原作の「白い牙」物が連作された。ケリー・ジュニアも[[ルチオ・フルチ]]監督の『名犬ホワイト/大雪原の死闘』(1974年/未/テレビ放映)に出演し、[[フランコ・ネロ]]や[[ヴィルナ・リージ]]と言ったスターと共演し、撮影もカナダを中心に行われた。

1975年にはハリウッド・メジャーの20世紀フォックスが主導で製作した『[[ワイルドトレイル]]』にも脇役した。イタリアの[[アントニオ・マルゲリーティ]]が監督で、スペイン領のカナリア諸島で撮影された。尚、[[ダナ・アンドリュース|デーナ・アンドリュース]]や[[バリー・サリヴァン (俳優)|バリー・サリヴァン]]と言ったハリウッドのベテラン俳優も出演していた。


== 主な出演作品 ==
== 主な出演作品 ==

2023年1月5日 (木) 12:38時点における版

ハリー・ケリー・ジュニア
Harry Carey Jr.
Harry Carey Jr.
1948年撮影
本名 Henry George Carey
別名義 Harry Carey[1]
Henry G. Carey[1]
生年月日 (1921-05-16) 1921年5月16日
没年月日 (2012-12-27) 2012年12月27日(91歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタクラリタ・サウガス
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタバーバラ
身長 185 cm
職業 俳優
ジャンル テレビ・映画
活動期間 1946年 - 2010年
配偶者 マリリン・ケリー[2](1944年 - 2012年)
著名な家族 ハリー・ケリー(父)
オリーヴ・ケリー(母)
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ハリー・ケリー・ジュニアHarry Carey, Jr.1921年5月16日 - 2012年12月27日)は、アメリカ合衆国の俳優。父はサイレント映画時代から西部劇を中心に活躍した名優ハリー・ケリー、母はその2番目の妻で女優のオリーヴ・ケリー英語版。父同様、西部劇作品に多く出演した性格俳優である[3]

来歴

人生とキャリア

西部劇映画で活躍した名優ハリー・ケリーの息子としてカリフォルニア州サンタクラリタサウガス英語版に生まれ、両親が所有するカリフォルニアの牧場で育つ[3]

オペラ歌手で映画スターのローレンス・ティベットのようなクラシック歌手になるのが夢で、歌の勉強のためにニューヨークに渡る。1939年にニューヨーク万国博覧会でショーのパフォーマーの職を得る。1941年にNBCで働くようになるが、第二次世界大戦が始まると海軍に入隊する。最初の3年間は衛生兵として働き、その後、父の親友ジョン・フォード監督によるプロパガンダ映画制作の任務に(ケリー本人が拒否したにもかかわらず)つくことになる[3]

退役後、歌手を目指すが上手く行かず[3]、俳優に転向し、1946年に映画『Rolling Home』の端役でデビューする[4]。その後、父が出演した映画『赤い河』(1948年)に出演したが父との共演シーンはない。なお、1946年にクランクアップしたが版権で揉め、公開は2年後になった。

1947年に父が亡くなると、父がかつて主演したサイレント映画『恵みの光英語版』(1919年)のリメイク作『三人の名付親』(1948年)で主役の1人に抜擢される。このリメイク作は、『恵みの光』の監督でもあるジョン・フォードが親友ハリー・ケリーに捧げた作品である[3]。この作品以降、フォード監督作品の常連俳優として多くの作品に出演するようになるが、他の監督の作品では扱いが悪く、クレジットされないこともあった。

1950年代以降はテレビを中心に活動し、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにテレビ分野で星を持つ。また、西部劇を中心に脇役から端役まで数多くの作品に出演し、1970年代にはマカロニ・ウエスタンにも出演した。

2012年に老衰で死去[5]

マカロニ・ウエスタンに出演

イタリア映画界が主導で製作した疑似西部劇をマカロニ・ウエスタンと呼ぶ。1960年代からはヘンリー・フォンダ・を筆頭にロッド・キャメロンリー・ヴァン・クリーフジョン・アイアランドジャック・イーラムウッディー・ストロードダン・デュリエ等のハリウッド西部劇のベテラン俳優が続々とマカロニ・ウエスタンに出演する様になった。

ケリー・ジュニアは彼等に遅れて1971年の『ザ・アウトロー/風来坊II』(未/ビデオ)の脇役が最初の出演である。翌年にはユーゴで撮影された『自転車紳士、西部を行く』(1972年/未/テレビ放映)でも『ザ・アウトロー~』で組んだエンツォ・バルボーニ監督と主演のテレンス・ヒルとの再仕事だった。また、ハリウッド俳優のグレゴリー・ウォルコットも出演していた。

ゴールド・ラッシュに沸くアラスカを舞台にしたチャールトン・ヘストン主演の『野性の叫び』(1972年)が製作されると、ジャック・ロンドン原作の「白い牙」物が連作された。ケリー・ジュニアもルチオ・フルチ監督の『名犬ホワイト/大雪原の死闘』(1974年/未/テレビ放映)に出演し、フランコ・ネロヴィルナ・リージと言ったスターと共演し、撮影もカナダを中心に行われた。

1975年にはハリウッド・メジャーの20世紀フォックスが主導で製作した『ワイルドトレイル』にも脇役した。イタリアのアントニオ・マルゲリーティが監督で、スペイン領のカナリア諸島で撮影された。尚、デーナ・アンドリュースバリー・サリヴァンと言ったハリウッドのベテラン俳優も出演していた。

主な出演作品

翻訳された著書

  • ジョン・フォードの旗の下に 高橋千尋訳 筑摩書房(リュミエール叢書) 1997/6/1

エピソード

「ハリー」や「ジュニア」ではなく、友人や家族、映画ファンからは「Dobe」と呼ばれていた[4]。 Dobeの愛称は生まれた直後に父が付けたもので、赤毛の髪が日干しれんが(adobe)を思わせることによる[3]

参考文献

関連項目

外部リンク