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「ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[1965年]]、兄ムハンマドの立太子辞退のため、先代国王[[ファイサル (サウジアラビア王)|ファイサル]]の後継者に立てられた。王太子時代には兄王ファイサルの外国訪問への同行、国際連合おけるサウジアラビアを代表しての発言などによって、近代国家統治のための経験積んでいる。
[[1965年]]、兄ムハンマドの立太子辞退のため、先代国王[[ファイサル (サウジアラビア王)|ファイサル]]の後継者に立てられた。王太子兼第一副首相時代には[[国際連合]]などで兄王ファイサルの代理を消極的ながらい<ref>Joseph A. Kechichian (2001). Succession in Saudi Arabia. New York City: Palgrave. ISBN 9780312238803.</ref>後継者選ばれた理由は政関心が低いために策略巡らすことはなからだったとされ<ref>M. Ehsan Ahrari (1999). "Political succession in Saudi Arabia". Comparative Strategy. 18 (1): 13–29. doi:10.1080/01495939908403160.</ref>

=== 即位後 ===
=== 即位後 ===
[[1975年]]にファイサルが暗殺されると即位した。即位後の政治に対する興味はやや薄く、国内的には弟[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド]]王太子に実効権限を与える形で統治となったが、対外政策決定の合理的根拠を発表するなどより[[自由主義]]的立場ったものであっ。後にハーリドは、国家発展のために外国人労働者の移入を決定している。
[[1975年]]にファイサルが暗殺されると即位した。即位後は弟[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド]]王太子兼第一副首相に実効権限を与える形で統治となったが、ハーリドは[[教育]]、[[医療]]、[[インフラストラクチャー]]には明確な興味を示してサウジアラビアは経済発展することとなった<ref>"Khalid, an almost reluctant ruler". The Sydney Morning. 15 June 1982.</ref><ref>Saudi Arabia A Country Study. Kessinger Publishing. 30 June 2004. p. 11. ISBN 978-1-4191-4621-3. </ref>。また、国家発展のために外国人労働者の移入を決定している。


[[1975年]][[4月]]の合意により、ブライミー・オアシスをめぐる[[アブダビ|アブダビ首長国]]([[アラブ首長国連邦]])および[[オマーン]]との領土問題を解決した。三か国間の長年の懸案を解決し、ハーリドは外交面における政治的名声を高めることになる
[[1975年]][[4月]]の合意により、ブライミー・オアシスをめぐる[[アブダビ|アブダビ首長国]]([[アラブ首長国連邦]])および[[オマーン]]との領土問題を解決した。三か国間の長年の懸案を解決し


同年、閣僚評議会改造にともないファハド王太子を副首相に指名した(首相は国王が務めた)。ハーリドは激務のため[[1976年]]には健康を損ない、[[アメリカ合衆国]]の[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で開胸手術を受けている。同時期に合衆国の[[ジミー・カーター|カーター]]大統領に[[共産主義]]陣営の脅威に対抗するためとして、新鋭の戦闘機の売却を要請した。F-15戦闘機60機が[[1982年]]から導入されている。サウジアラビアについて伝統主義はもはや有力な勢力ではないとの見解もあったが、[[1979年]][[11月20日]]、[[マッカ]]の大[[モスク]]を少なくとも500人におよぶ反体制派が占拠([[アル=ハラム・モスク占拠事件|マッカ・モスク占拠事件]])はこのような見解が誤りであることを示した。
同年、閣僚評議会改造にともないファハド王太子を副首相に指名した(首相は国王が務めた)。ハーリドは激務のため[[1976年]]には健康を損ない、[[アメリカ合衆国]]の[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で開胸手術を受けている。同時期に合衆国の[[ジミー・カーター|カーター]]大統領に[[共産主義]]陣営の脅威に対抗するためとして、新鋭の戦闘機の売却を要請した。F-15戦闘機60機が[[1982年]]から導入されている。サウジアラビアについて伝統主義はもはや有力な勢力ではないとの見解もあったが、[[1979年]][[11月20日]]、[[マッカ]]の大[[モスク]]を少なくとも500人におよぶ反体制派が占拠した事件([[アル=ハラム・モスク占拠事件|マッカ・モスク占拠事件]])はこのような見解が誤りであることを示した。[[1981年]]には[[湾岸協力会議]](GCC)を結成した。同年、[[キング・ファイサル国際賞]]イスラーム奉仕部門受賞


[[サウード家]]には[[心臓発作]]で亡くなる者が多く、旅行中の発作に備え手術室を設置した[[ボーイング747]]を購入していたが、[[1982年]][[6月13日]]、やはりハーリドも心臓発作でし、ファハドが後を継いだ。
[[サウード家]]には[[心臓発作]]で亡くなる者が多く、旅行中の発作に備え手術室を設置した[[ボーイング747]]を購入していたが、[[1982年]][[6月13日]]、やはりハーリドも心臓発作で崩御し、ファハドが後を継いだ。

ハーリドは比較的鷹揚な性格をもち、敬虔な信徒であった。顕著な業績として第2次[[五カ年計画]]によってサウジアラビアの[[インフラストラクチャー]]および[[医療]]制度の確立に努めたこと、また多くの首脳会談を主催し、[[1981年]]に[[湾岸協力会議]](GCC)を結成したことなどが挙げられる。ただし、これらは実権を握ってたファハド王太子によるところが大きい。同年、[[キング・ファイサル国際賞]]イスラーム奉仕部門受賞。


== 逸話 ==
== 逸話 ==
ハーリドを記念したものとして、その名を冠した[[リヤド]]の国際空港[[キング・ハーリド国際空港]]および軍事都市[[ハーリド国王軍事都市]]などがある。
ハーリドを記念したものとして、その名を冠した[[リヤド]]の国際空港[[キング・ハーリド国際空港]]および軍事都市[[ハーリド国王軍事都市]]などがある。

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ハーリド
خالد
サウジアラビア国王
1977年撮影
在位 1975年3月25日 - 1982年6月13日

全名 خالد بن عبد العزيز آل سعود
ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード
出生 (1913-02-13) 1913年2月13日
ナジュド及びハッサ王国リヤド
死去 (1982-06-13) 1982年6月13日(69歳没)
サウジアラビアの旗 サウジアラビアリヤド
埋葬 1982年6月13日
サウジアラビアの旗 サウジアラビアリヤドウード墓地
子女 アブドゥッラー
家名 サウード家
父親 イブン・サウード
母親 ジャウハラ・ビント・ムサーイド・アール・サウード
宗教 イスラム教ワッハーブ派
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ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードアラビア語: خالد بن عبد العزيز آل سعود‎, ラテン文字転写: Khalid bin Abdulaziz Al Saud1913年2月13日1982年6月13日[1])は、第4代サウジアラビア国王ワッハーブ派イマームとしてはハーリド2世と呼ばれる。

生涯

[編集]

1965年、兄ムハンマドの立太子辞退のため、先代国王ファイサルの後継者に立てられた。王太子兼第一副首相時代には国際連合などで兄王ファイサルの代理を消極的ながら行い[2]、後継者に選ばれた理由は政治への関心が低いために策略を巡らすことはないからだったとされる[3]

即位後

[編集]

1975年にファイサルが暗殺されると即位した。即位後は弟ファハド王太子兼第一副首相に実効権限を与える形での統治となったが、ハーリドは教育医療インフラストラクチャーには明確な興味を示してサウジアラビアは経済発展することとなった[4][5]。また、国家発展のために外国人労働者の移入を決定している。

1975年4月の合意により、ブライミー・オアシスをめぐるアブダビ首長国アラブ首長国連邦)およびオマーンとの領土問題を解決した。三か国間の長年の懸案を解決した。

同年、閣僚評議会改造にともないファハド王太子を副首相に指名した(首相は国王が務めた)。ハーリドは激務のため1976年には健康を損ない、アメリカ合衆国クリーブランドで開胸手術を受けている。同時期に合衆国のカーター大統領に共産主義陣営の脅威に対抗するためとして、新鋭の戦闘機の売却を要請した。F-15戦闘機60機が1982年から導入されている。サウジアラビアについて伝統主義はもはや有力な勢力ではないとの見解もあったが、1979年11月20日マッカの大モスクを少なくとも500人におよぶ反体制派が占拠した事件(マッカ・モスク占拠事件)はこのような見解が誤りであることを示した。1981年には湾岸協力会議(GCC)を結成した。同年、キング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門受賞。

サウード家には心臓発作で亡くなる者が多く、旅行中の発作に備え手術室を設置したボーイング747を購入していたが、1982年6月13日、やはりハーリドも心臓発作で崩御し、ファハドが後を継いだ。

逸話

[編集]

ハーリドを記念したものとして、その名を冠したリヤドの国際空港キング・ハーリド国際空港および軍事都市ハーリド国王軍事都市などがある。

脚注

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  1. ^ ハリド』 - コトバンク
  2. ^ Joseph A. Kechichian (2001). Succession in Saudi Arabia. New York City: Palgrave. ISBN 9780312238803.
  3. ^ M. Ehsan Ahrari (1999). "Political succession in Saudi Arabia". Comparative Strategy. 18 (1): 13–29. doi:10.1080/01495939908403160.
  4. ^ "Khalid, an almost reluctant ruler". The Sydney Morning. 15 June 1982.
  5. ^ Saudi Arabia A Country Study. Kessinger Publishing. 30 June 2004. p. 11. ISBN 978-1-4191-4621-3.