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{{基礎情報 君主 |
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|人 |
|人名 =ハーリド |
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|戴冠日 = |
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|全名 ={{Rtl-lang|ar|خالد بن عبد العزيز آل سعود}}<br />ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード |
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{{commonscat|King Khalid bin Abdulaziz}} |
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'''ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード'''({{Rtl翻字併記|ar|'''خالد بن عبد العزيز آل سعود'''|'''Khalid bin Abdulaziz Al Saud'''}}、[[1912年]] – [[1982年]][[6月13日]])は第4代[[サウジアラビア]][[サウジアラビアの国王一覧|国王]]。兄である先代国王[[ファイサル (サウジアラビア王)|ファイサル]]の暗殺のため[[1975年]]に即位し、以降1982年の病没まで在位した。なお、[[ワッハーブ派]][[イマーム]]としてはハーリド2世と呼ばれる。 |
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'''ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード'''({{Rtl翻字併記|ar|'''خالد بن عبد العزيز آل سعود'''|'''Khalid bin Abdulaziz Al Saud'''}}、[[1913年]][[2月13日]] – [[1982年]][[6月13日]]<ref>{{Kotobank|ハリド}}</ref>)は、第4代[[サウジアラビア]][[サウジアラビアの国王一覧|国王]]。[[ワッハーブ派]][[イマーム]]としては'''ハーリド2世'''と呼ばれる。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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[[1965年]]、兄ムハンマドの立太子辞退のため、先代国王[[ファイサル (サウジアラビア王)|ファイサル]]の後継者に立てられた。王太子兼第一副首相時代には[[国際連合]]などで兄王ファイサルの代理を消極的ながら行い<ref>Joseph A. Kechichian (2001). Succession in Saudi Arabia. New York City: Palgrave. ISBN 9780312238803.</ref>、後継者に選ばれた理由は政治への関心が低いために策略を巡らすことはないからだったとされる<ref>M. Ehsan Ahrari (1999). "Political succession in Saudi Arabia". Comparative Strategy. 18 (1): 13–29. doi:10.1080/01495939908403160.</ref>。 |
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ハーリドは[[1965年]]、兄ムハンマドの立太子辞退のため、ファイサルの後継者にあげられた。王太子時代には兄王ファイサルの外国訪問への同行、国際連合におけるサウジアラビアを代表しての発言などによって近代国家統治のための経験を積んでいる。即位後の政治に対する興味はやや薄く、国内的には弟[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド王太子]]に実効権限を与える形で統治となったが、対外政策決定の合理的根拠を発表するなどより自由主義的立場にたったものであった。のちにハーリドは国家発展のために外国人労働者の移入を決定している。 |
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=== 即位後 === |
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[[1975年]][[4月]]の合意により、ブライミー・オアシスをめぐる[[アブダビ|アブダビ首長国]]([[アラブ首長国連邦]])および[[オマーン]]との領土問題を解決。三カ国間の長年の懸案を解決し、ハーリドは外交面における政治的名声を高めることになる。 |
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[[1975年]]にファイサルが暗殺されると即位した。即位後は弟[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド]]王太子兼第一副首相に実効権限を与える形での統治となったが、ハーリドは[[教育]]、[[医療]]、[[インフラストラクチャー]]には明確な興味を示してサウジアラビアは経済発展することとなった<ref>"Khalid, an almost reluctant ruler". The Sydney Morning. 15 June 1982.</ref><ref>Saudi Arabia A Country Study. Kessinger Publishing. 30 June 2004. p. 11. ISBN 978-1-4191-4621-3. </ref>。また、国家発展のために外国人労働者の移入を決定している。 |
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[[1975年]][[4月]]の合意により、ブライミー・オアシスをめぐる[[アブダビ|アブダビ首長国]]([[アラブ首長国連邦]])および[[オマーン]]との領土問題を解決した。三か国間の長年の懸案を解決した。 |
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同年、閣僚評議会改造にともないファハド王太子を副首相に指名した([[首相]]は国王がつとめる)。ハーリドは激務のため[[1976年]]には健康を損ない、[[アメリカ合衆国]]の[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で開胸手術を受けている。同時期に合衆国の[[ジミー・カーター|カーター大統領]]に[[共産主義]]陣営の脅威に対抗するためとして、新鋭の戦闘機の売却を要請した。F-15戦闘機60機が[[1982年]]から導入されている。サウジアラビアについて伝統主義はもはや有力な勢力ではないとの見解もあったが、[[1979年]][[11月20日]]、[[マッカ]]の大[[モスク]]を少なくとも500人におよぶ反体制派が占拠([[アル=ハラム・モスク占拠事件|マッカ・モスク占拠事件]])はこのような見解が誤りであることを示した。 |
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同年、閣僚評議会改造にともないファハド王太子を副首相に指名した(首相は国王が務めた)。ハーリドは激務のため[[1976年]]には健康を損ない、[[アメリカ合衆国]]の[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で開胸手術を受けている。同時期に合衆国の[[ジミー・カーター|カーター]]大統領に[[共産主義]]陣営の脅威に対抗するためとして、新鋭の戦闘機の売却を要請した。F-15戦闘機60機が[[1982年]]から導入されている。サウジアラビアについて伝統主義はもはや有力な勢力ではないとの見解もあったが、[[1979年]][[11月20日]]、[[マッカ]]の大[[モスク]]を少なくとも500人におよぶ反体制派が占拠した事件([[アル=ハラム・モスク占拠事件|マッカ・モスク占拠事件]])はこのような見解が誤りであることを示した。[[1981年]]には[[湾岸協力会議]](GCC)を結成した。同年、[[キング・ファイサル国際賞]]イスラーム奉仕部門受賞。 |
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[[サウード家]]には[[心臓発作]]で亡くなる者が多く、旅行中の発作に備え手術室を設置した[[ボーイング747]]を購入していたが、ハーリドもやはり[[1982年]][[6月13日]]、心臓発作で没し、ファハドが後を継いだ。 |
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[[サウード家]]には[[心臓発作]]で亡くなる者が多く、旅行中の発作に備え手術室を設置した[[ボーイング747]]を購入していたが、[[1982年]][[6月13日]]、やはりハーリドも心臓発作で崩御し、ファハドが後を継いだ。 |
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ハーリドは比較的鷹揚な性格をもち、敬虔な信徒であった。顕著な業績として第2次[[五カ年計画]]によってサウジアラビアの[[インフラストラクチャー]]および[[医療]]制度の確立に努めたこと、また多くの首脳会談を主催し、[[1981年]]に[[湾岸協力会議]](GCC)を結成したことなどが挙げられる。 |
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
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ハーリドを記念したものとして、その名を冠した[[リヤド]]の国際空港[[キング・ハーリド国際空港]]および軍事都市[[ハーリド国王軍事都市]]などがある。 |
ハーリドを記念したものとして、その名を冠した[[リヤド]]の国際空港[[キング・ハーリド国際空港]]および軍事都市[[ハーリド国王軍事都市]]などがある。 |
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== 脚注 == |
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* [[冷戦]] |
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{{サウジアラビア国王|第4代}} |
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[[Category:ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ|*]] |
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[[zh:哈立德·本·阿卜杜勒-阿齐兹·阿勒沙特]] |
2023年6月15日 (木) 12:00時点における最新版
ハーリド خالد | |
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サウジアラビア国王 | |
1977年撮影 | |
在位 | 1975年3月25日 - 1982年6月13日 |
全名 |
خالد بن عبد العزيز آل سعود ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード |
出生 |
1913年2月13日 ナジュド及びハッサ王国、リヤド |
死去 |
1982年6月13日(69歳没) サウジアラビア、リヤド |
埋葬 |
1982年6月13日 サウジアラビア、リヤド、ウード墓地 |
子女 | アブドゥッラー |
家名 | サウード家 |
父親 | イブン・サウード |
母親 | ジャウハラ・ビント・ムサーイド・アール・サウード |
宗教 | イスラム教ワッハーブ派 |
ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード(アラビア語: خالد بن عبد العزيز آل سعود, ラテン文字転写: Khalid bin Abdulaziz Al Saud、1913年2月13日 – 1982年6月13日[1])は、第4代サウジアラビア国王。ワッハーブ派イマームとしてはハーリド2世と呼ばれる。
生涯
[編集]1965年、兄ムハンマドの立太子辞退のため、先代国王ファイサルの後継者に立てられた。王太子兼第一副首相時代には国際連合などで兄王ファイサルの代理を消極的ながら行い[2]、後継者に選ばれた理由は政治への関心が低いために策略を巡らすことはないからだったとされる[3]。
即位後
[編集]1975年にファイサルが暗殺されると即位した。即位後は弟ファハド王太子兼第一副首相に実効権限を与える形での統治となったが、ハーリドは教育、医療、インフラストラクチャーには明確な興味を示してサウジアラビアは経済発展することとなった[4][5]。また、国家発展のために外国人労働者の移入を決定している。
1975年4月の合意により、ブライミー・オアシスをめぐるアブダビ首長国(アラブ首長国連邦)およびオマーンとの領土問題を解決した。三か国間の長年の懸案を解決した。
同年、閣僚評議会改造にともないファハド王太子を副首相に指名した(首相は国王が務めた)。ハーリドは激務のため1976年には健康を損ない、アメリカ合衆国のクリーブランドで開胸手術を受けている。同時期に合衆国のカーター大統領に共産主義陣営の脅威に対抗するためとして、新鋭の戦闘機の売却を要請した。F-15戦闘機60機が1982年から導入されている。サウジアラビアについて伝統主義はもはや有力な勢力ではないとの見解もあったが、1979年11月20日、マッカの大モスクを少なくとも500人におよぶ反体制派が占拠した事件(マッカ・モスク占拠事件)はこのような見解が誤りであることを示した。1981年には湾岸協力会議(GCC)を結成した。同年、キング・ファイサル国際賞イスラーム奉仕部門受賞。
サウード家には心臓発作で亡くなる者が多く、旅行中の発作に備え手術室を設置したボーイング747を購入していたが、1982年6月13日、やはりハーリドも心臓発作で崩御し、ファハドが後を継いだ。
逸話
[編集]ハーリドを記念したものとして、その名を冠したリヤドの国際空港キング・ハーリド国際空港および軍事都市ハーリド国王軍事都市などがある。
脚注
[編集]- ^ 『ハリド』 - コトバンク
- ^ Joseph A. Kechichian (2001). Succession in Saudi Arabia. New York City: Palgrave. ISBN 9780312238803.
- ^ M. Ehsan Ahrari (1999). "Political succession in Saudi Arabia". Comparative Strategy. 18 (1): 13–29. doi:10.1080/01495939908403160.
- ^ "Khalid, an almost reluctant ruler". The Sydney Morning. 15 June 1982.
- ^ Saudi Arabia A Country Study. Kessinger Publishing. 30 June 2004. p. 11. ISBN 978-1-4191-4621-3.