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「ラヴェンナの戦い」の版間の差分

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'''ラヴェンナの戦い'''(―たたかいは、[[カンブレー同盟戦争]]の一環として1512年に発生したフランス軍と[[神聖同盟 (16世紀)|神聖同盟]]軍との戦い。
'''ラヴェンナの戦い'''(ラヴェンナのたたかい、[[イタリア語|伊]]:Battaglia di Ravenna, [[フランス語|仏]]:Bataille de Ravenne)は、[[カンブレー同盟戦争]]の一環として[[1512年]]に発生したフランス軍と[[神聖同盟 (16世紀)|神聖同盟]]軍との戦い。


== 概要 ==
== 概要 ==
事の発端はフランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]が[[ラヴェンナ]]を占領したことから始まった。これに対して、教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]は神聖同盟を結成する。
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両軍はラヴェンナ近郊で戦争を開始し、結果はフランス軍が勝利した。フランス軍の勝因には、[[フェラーラ]]の砲兵隊が加わっていたことも挙げられる。
両軍はラヴェンナ近郊で戦争を開始し、フランス軍が勝利した。フランス軍の勝因には、[[フェラーラ]]の砲兵隊が加わっていたことも挙げられる。


== その後 ==
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フランス軍は勝利したが、総大将[[ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)|ガストン・ド・フォワ]]が戦死したため[[ボローニャ]]に撤退し、ラヴェンナは[[教皇領]]に戻った。
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1513年、ユリウス2世はドイツ軍を引き込むために領土割譲を要求したため、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]はフランスと[[同盟]]を結んだ。
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2023年8月20日 (日) 12:31時点における最新版

ラヴェンナの戦い

アリ・シェフェールによる「ガストン・ド・フォワの戦死」
戦争カンブレー同盟戦争
年月日:1512年4月11日
場所ラヴェンナイタリア
結果:フランスの勝利
交戦勢力
フランス
フェラーラ公国
神聖同盟:
スペイン
教皇国
指導者・指揮官
ガストン・ド・フォワ  レイモンド・デ・カルドナ
戦力
~23,000 ~16,000
損害
戦死 ~3,000または4,500
負傷 ~4,500
(ガストン・ド・フォワ戦死)
戦死 ~9,000
負傷者 不明

ラヴェンナの戦い(ラヴェンナのたたかい、:Battaglia di Ravenna, :Bataille de Ravenne)は、カンブレー同盟戦争の一環として1512年に発生したフランス軍と神聖同盟軍との戦い。

概要[編集]

事の発端はフランス王ルイ12世ラヴェンナを占領したことから始まった。これに対して、教皇ユリウス2世は神聖同盟を結成する。

両軍はラヴェンナ近郊で戦争を開始し、フランス軍が勝利した。フランス軍の勝因には、フェラーラの砲兵隊が加わっていたことも挙げられる。

その後[編集]

フランス軍は勝利したが、総大将ガストン・ド・フォワが戦死したためボローニャに撤退し、ラヴェンナは教皇領に戻った。

1513年、ユリウス2世はドイツ軍を引き込むために領土割譲を要求した。そのため、ヴェネツィアはフランスと同盟を結んだ。