コンテンツにスキップ

「ラサロ・カルデナス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
→‎脚注: 表現変更
 
(9人の利用者による、間の12版が非表示)
2行目: 2行目:
| 各国語表記=Lázaro Cárdenas del Río
| 各国語表記=Lázaro Cárdenas del Río
| 画像=Lazaro cardenas2.jpg
| 画像=Lazaro cardenas2.jpg
| 代数=第52
| 代数=第44
| 職名=大統領
| 職名=[[メキシコの大統領|大統領]]
| 職名=[[メキシコの大統領|大統領]]
| 国名={{flagicon|MEX1934}} [[メキシコ|メキシコ合衆国]]
| 国名={{flagicon|MEX1934}} [[メキシコ|メキシコ合衆国]]
13行目: 12行目:
| 生死=死去
| 生死=死去
| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1895|5|21|1970|10|19}}
| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1895|5|21|1970|10|19}}
| 没地={{MEX}}、[[メキシコ市]]
| 没地={{MEX}}、[[メキシコシティ|メキシコ市]]
| 配偶者=アマリア・ソロルサノ
| 配偶者=アマリア・ソロルサノ
| 政党=国民革命党、メキシコ革命党
| 政党=
}}
}}
'''ラサロ・カルデナス・デル・リオ'''(Lázaro Cárdenas del Río、[[1895年]][[5月21日]] - [[1970年]][[10月19日]])は、[[メキシコ]]の[[政治家]]、[[大統領]](任期1934年-1940年)。
'''ラサロ・カルデナス・デル・リオ'''(Lázaro Cárdenas del Río、[[1895年]][[5月21日]] - [[1970年]][[10月19日]])は、[[メキシコ]]の[[政治家]]、[[大統領]](任期1934年-1940年)。


[[20世紀]]で最も国民の人気の高いメキシコ大統領であり<ref>{{cite news |last1=Batres Guadarrama |first1=Marti |title=Lázaro Cárdenas, el presidente del pueblo |url=http://www.jornada.com.mx/2005/10/20/index.php?section=politica&article=028a2pol |accessdate=12 September 2018 |agency=La Jornada}}</ref><ref>{{cite web |last1=Ayala |first1=Rodrigo |title=Quién fue Lázaro Cárdenas y cuáles fueron sus aportaciones |url=https://culturacolectiva.com/historia/quien-fue-lazaro-cardenas-y-cuales-fueron-sus-aportaciones/ |website=Cultura Colectiva |date=19 May 2018 |accessdate=12 September 2018}}</ref><ref>{{cite web |last1=Velazquez |first1=Carlos |title=Lázaro Cárdenas, el presidente más popular que ha tenido México |url=http://www.sinaloadossier.com.mx/index.php/columnistas/carlos-velazquez/597-lazaro-cardenas-el-presidente-mas-popular-que-ha-tenido-mexico-.html |website=Sinaloa Dossier |accessdate=12 September 2018}}</ref>、[[ポピュリズム|ポピュリスト]]とも評されている<ref>Alan Knight, "Lázaro Cárdenas" in Encyclopedia of Latin American History and Culture, vol. 1, p. 555. New York: Charles Scribner's Sons 1996.</ref>。
[[ポピュリズム]]の先駆けとされる。[[1992年]]に発行された10新[[メキシコ・ペソ|ペソ]]紙幣に肖像が使用されていた。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
メキシコ中部の[[ミチョアカン州]]で生まれ、印刷工から1913年、18歳の時に[[メキシコ革命]]に参加、[[アルバロ・オブレゴン]]の護憲革命軍北西師団で騎兵隊指揮官となる。オブレゴンが政権を握って以降、1928年ミチョアカン州知事、国民革命党PNR(彼の大統領在任中にメキシコ革命党PRMに改組され、その後さらに[[制度的革命党]]PRIに改名して現在に至る)の党総裁、内務大臣、陸軍長官を歴任し1934年に大統領選に立候補。圧倒的に強力な支配政党からの出馬で、実質的に落選の可能性はなかったにもかかわらず、選挙戦においては過去に例のない全国遊説を行い、圧倒的な得票で当選する。
メキシコ中部の[[ミチョアカン州]]で生まれ、印刷工から1913年、18歳の時に[[メキシコ革命]]に参加、[[アルバロ・オブレゴン]]の護憲革命軍北西師団で騎兵隊指揮官となる。オブレゴンが政権を握って以降、1928年ミチョアカン州知事、国民革命党PNR(彼の大統領在任中にメキシコ革命党PRMに改組され、その後さらに[[制度的革命党]]PRIに改名して現在に至る)の党総裁、内務大臣、陸軍長官を歴任し1934年に大統領選に立候補。圧倒的に強力な支配政党からの出馬で、実質的に落選の可能性はなかったにもかかわらず、選挙戦においては過去に例のない全国遊説を行い、圧倒的な得票で当選する。


政界の黒幕であった[[プルタルコ・エリアス・カリェス|カジェス]]元大統領に推されて、その傀儡として選ばれた大統領だったが、当選後はカジェスやその側近、腐敗の極みにあった既存の労働組合幹部を追放し、1917年革命憲法にうたわれながらほとんど実行されていなかった農地改革などの社会改革に乗り出す。農地改革の規模は2,000万ヘクタール、分配を受けた農民は77万人であった。
政界の黒幕であった[[プルタルコ・エリアス・カリェス|カジェス]]元大統領に推されて、その傀儡として選ばれた大統領だったが、当選後はカジェスやその側近、腐敗の極みにあった既存の労働組合幹部を追放し、[[メキシコ憲法|1917年革命憲法]]にうたわれながらほとんど実行されていなかった農地改革などの社会改革に乗り出す。農地改革の規模は2,000万ヘクタール、分配を受けた農民は77万人であった。


また1937年に鉄道の国有化、38年には石油産業の国有化に踏み切る。特に石油産業の国有化による[[ペメックス]]の設立は国の猛烈な反発を受け、接収の補償金支出を巡って財政危機に陥ったが、国民は熱狂的にこれを支持した。[[スペイン内戦]]に当たっては、最後まで共和政府側を支援した。3,000挺とも20,000挺ともいわれる小銃を送ったほか、人民戦線の敗北によって内戦が終結したあとは、約10,000人の亡命者をメキシコに受け入れた。この亡命者がメキシコの文化・芸術などに与えた影響は非常に大きかったと言われている。1937年には、ソ連を追われていた[[レフ・トロツキー|トロツキー]]の[[亡命]]も受け入れた。大統領を退任した後は[[1945年]]まで国防長官を務めた。1955年には[[レーニン平和賞|スターリン平和賞]]を受賞した。
大統領在任中は、1937年に鉄道の国有化、38年には[[石油産業]]の国有化に踏み切る。特に石油産業の国有化による[[ペメックス]]の設立は[[アメリカ合衆]]の猛烈な反発を受け、接収の補償金支出を巡って財政危機に陥ったが、国民は熱狂的にこれを支持した。[[スペイン内戦]]に当たっては、最後まで共和政府側を支援した。3,000挺とも20,000挺ともいわれる小銃を送ったほか、人民戦線の敗北によって内戦が終結したあとは、約10,000人の亡命者をメキシコに受け入れた。この亡命者がメキシコの文化・芸術などに与えた影響は非常に大きかったと言われている。1937年には、ソ連を追われていた[[レフ・トロツキー|トロツキー]]の[[亡命]]も受け入れた。


大統領退任後は[[1945年]]まで国防長官を務め、[[第二次世界大戦]]中は[[アメリカ合衆国]]との同盟強化に努めた<ref>Hamilton, Nora. "Lázaro Cárdenas" in Encyclopedia of Mexico, vol. 1, p. 194. Chicago: Fitzroy and Dearborn 1997.</ref><ref>Knight, "Lázaro Cárdenas" in Encyclopedia of Latin American History and Culture, vol. 1, p. 555.</ref>。
カルデナスは、メキシコ史上もっとも左派色の強い大統領であり、それゆえ彼の政策への評価は人により大きく分かれるが、[[ベニート・フアレス]]と並びメキシコ史上もっとも国民の人気の高い大統領である。


1955年には[[レーニン平和賞|スターリン平和賞]]を受賞した。
なお、彼の息子[[:en:Cuauhtémoc Cárdenas|クアウテモク・カルデナス]]も政治家であり、やはりミチョアカン州知事を務めたあと、与党制度的革命党を離れ、[[中道左派]]政党の[[民主革命党 (メキシコ)|民主革命党]](PRD)を結成、その党首として数回大統領選に立候補しているほか、首都[[メキシコシティ]]の[[市長]]にも当選している(任期1997年-2000年)。クアウテモクの長男でラサロの孫にあたる[[:en:Lázaro Cárdenas Batel|ラサロ・カルデナス・バテル]]も同じく政治家を務めている。


== 表彰 ==
カルデナスの出身地[[ミチョアカン州]]の港町ロス・ラニトスは彼の功績にちなんで[[1970年]]に[[:en:Lázaro Cárdenas, Michoacán|ラサロ・カルデナス市]]と改名している。
カルデナスの出身地[[ミチョアカン州]]の港町ロス・ラニトスは彼の功績にちなんで[[1970年]]に[[:en:Lázaro Cárdenas, Michoacán|ラサロ・カルデナス市]]と改名している。


[[1992年]]に発行された10新[[メキシコ・ペソ|ペソ]]紙幣に肖像が使用されていた。

== 家族 ==
彼の息子[[クアウテモク・カルデナス]]も政治家であり、やはりミチョアカン州知事を務めたあと、与党制度的革命党を離れ、[[中道左派]]政党の[[民主革命党 (メキシコ)|民主革命党]](PRD)を結成、その党首として数回大統領選に立候補しているほか、首都[[メキシコシティ]]の[[市長]]にも当選している(任期1997年-2000年)。クアウテモクの長男でラサロの孫にあたる[[:en:Lázaro Cárdenas Batel|ラサロ・カルデナス・バテル]]も同じく政治家を務めている。

== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}


{{start box}}
{{start box}}
{{s-off}}
{{s-off}}
{{Succession box
{{Succession box
| title = {{flagicon|MEX}} [[メキシコの大統領|メキシコ合衆国大統領]]
| title = {{flagicon|MEX1934}} [[メキシコの大統領|メキシコ合衆国大統領]]
| years = 第52代:1934 - 1940
| years = 第52代:1934 - 1940
| before = [[アベラルド・ロドリゲス]]
| before = [[アベラルド・ロドリゲス]]
50行目: 58行目:
}}
}}
{{end box}}
{{end box}}
{{Normdaten}}


{{DEFAULTSORT:かるてなす らさろ}}
{{DEFAULTSORT:かるてなす らさろ}}
[[Category:メキシコの政治家]]
[[Category:メキシコの政治家]]
[[Category:メキシコの大統領]]
[[Category:メキシコの大統領]]
[[Category:第二次世界大戦期の政治家]]
[[Category:メキシコ革命]]
[[Category:メキシコ革命]]
[[Category:メキシコ・ペソ紙幣の人物]]
[[Category:メキシコ・ペソ紙幣の人物]]

2023年12月25日 (月) 10:28時点における最新版

ラサロ・カルデナス・デル・リオ
Lázaro Cárdenas del Río


任期 1934年12月1日1940年11月30日

出生 (1895-05-21) 1895年5月21日
メキシコの旗 メキシコミチョアカン州ヒキルパン
死去 (1970-10-19) 1970年10月19日(75歳没)
メキシコの旗 メキシコメキシコ市
政党 国民革命党、メキシコ革命党
配偶者 アマリア・ソロルサノ

ラサロ・カルデナス・デル・リオ(Lázaro Cárdenas del Río、1895年5月21日 - 1970年10月19日)は、メキシコ政治家大統領(任期1934年-1940年)。

20世紀で最も国民の人気の高いメキシコ大統領であり[1][2][3]ポピュリストとも評されている[4]

来歴[編集]

メキシコ中部のミチョアカン州で生まれ、印刷工から1913年、18歳の時にメキシコ革命に参加、アルバロ・オブレゴンの護憲革命軍北西師団で騎兵隊指揮官となる。オブレゴンが政権を握って以降、1928年ミチョアカン州知事、国民革命党PNR(彼の大統領在任中にメキシコ革命党PRMに改組され、その後さらに制度的革命党PRIに改名して現在に至る)の党総裁、内務大臣、陸軍長官を歴任し1934年に大統領選に立候補。圧倒的に強力な支配政党からの出馬で、実質的に落選の可能性はなかったにもかかわらず、選挙戦においては過去に例のない全国遊説を行い、圧倒的な得票で当選する。

政界の黒幕であったカジェス元大統領に推されて、その傀儡として選ばれた大統領だったが、当選後はカジェスやその側近、腐敗の極みにあった既存の労働組合幹部を追放し、1917年革命憲法にうたわれながらほとんど実行されていなかった農地改革などの社会改革に乗り出す。農地改革の規模は2,000万ヘクタール、分配を受けた農民は77万人であった。

大統領在任中は、1937年に鉄道の国有化、38年には石油産業の国有化に踏み切る。特に石油産業の国有化によるペメックスの設立はアメリカ合衆国の猛烈な反発を受け、接収の補償金支出を巡って財政危機に陥ったが、国民は熱狂的にこれを支持した。スペイン内戦に当たっては、最後まで共和政府側を支援した。3,000挺とも20,000挺ともいわれる小銃を送ったほか、人民戦線の敗北によって内戦が終結したあとは、約10,000人の亡命者をメキシコに受け入れた。この亡命者がメキシコの文化・芸術などに与えた影響は非常に大きかったと言われている。1937年には、ソ連を追われていたトロツキー亡命も受け入れた。

大統領退任後は1945年まで国防長官を務め、第二次世界大戦中はアメリカ合衆国との同盟強化に努めた[5][6]

1955年にはスターリン平和賞を受賞した。

表彰[編集]

カルデナスの出身地ミチョアカン州の港町ロス・ラニトスは彼の功績にちなんで1970年ラサロ・カルデナス市と改名している。

1992年に発行された10新ペソ紙幣に肖像が使用されていた。

家族[編集]

彼の息子クアウテモク・カルデナスも政治家であり、やはりミチョアカン州知事を務めたあと、与党制度的革命党を離れ、中道左派政党の民主革命党(PRD)を結成、その党首として数回大統領選に立候補しているほか、首都メキシコシティ市長にも当選している(任期1997年-2000年)。クアウテモクの長男でラサロの孫にあたるラサロ・カルデナス・バテルも同じく政治家を務めている。

出典[編集]

  1. ^ Batres Guadarrama, Marti. “Lázaro Cárdenas, el presidente del pueblo”. La Jornada. http://www.jornada.com.mx/2005/10/20/index.php?section=politica&article=028a2pol 2018年9月12日閲覧。 
  2. ^ Quién fue Lázaro Cárdenas y cuáles fueron sus aportaciones”. Cultura Colectiva (2018年5月19日). 2018年9月12日閲覧。
  3. ^ Lázaro Cárdenas, el presidente más popular que ha tenido México”. Sinaloa Dossier. 2018年9月12日閲覧。
  4. ^ Alan Knight, "Lázaro Cárdenas" in Encyclopedia of Latin American History and Culture, vol. 1, p. 555. New York: Charles Scribner's Sons 1996.
  5. ^ Hamilton, Nora. "Lázaro Cárdenas" in Encyclopedia of Mexico, vol. 1, p. 194. Chicago: Fitzroy and Dearborn 1997.
  6. ^ Knight, "Lázaro Cárdenas" in Encyclopedia of Latin American History and Culture, vol. 1, p. 555.
公職
先代
アベラルド・ロドリゲス
メキシコの旗 メキシコ合衆国大統領
第52代:1934 - 1940
次代
マヌエル・アビラ・カマーチョ
先代
Benigno Serrato
Gabino Vázquez
Dámaso Cárdenas del Río
ミチョアカン州知事
第6代:1931 - 1932
第4代:1930
第2代:1928 - 1929
次代
Gabino Vázquez
Dámaso Cárdenas del Río
Enrique Ramírez Aviña