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'''メイール・ダガン'''(Meir Dagan、[[1945年]] - )は、[[イスラエル]]の軍人、政治家。退役少将。[[イスラエル諜報特務局]]長官。対テロ、アラブ問題の専門家。
'''メイール・ダガン'''(Meir Dagan、[[1945年]] - )は、[[イスラエル]]の軍人、政治家。退役少将。[[イスラエル諜報特務局]]長官。対テロ、アラブ問題の専門家。


== 経歴・軍歴 ==
メイール・フーベルマン(Meir Huberman)として[[ロシア]]の[[ノヴォシビルスク]]に生まれる。1950年、家族と共にイスラエルに移住。[[イスラエル国防軍]]に入隊し、空挺部隊に勤務。1967年からイスラエルが係わる全ての戦争に参加した。1970年代、対テロ部隊「リモン」(後の「ドゥヴデヴァン」、「シムション」部隊)創設の発議者。1980年代中盤、南レバノン軍の創設者の1人となる。
生名メイール・フーベルマン(Meir Huberman)として[[ロシア]]の[[ノヴォシビルスク]]に生まれる。1950年、家族と共にイスラエルに移住。[[イスラエル国防軍]]に入隊し、空挺部隊に勤務。1967年からイスラエルが係わる全ての戦争に参加した。1970年代、対テロ部隊「リモン」(後の「ドゥヴデヴァン」、「シムション」部隊)創設の発議者。1980年代中盤、南レバノン軍の創設者の1人となる。


1991年、当時の参謀総長[[エフド・バラク]]の[[インティファーダ]]問題担当補佐官となる。1992年、作戦局長補佐官に任命。1995年、退役。
1991年、当時の参謀総長[[エフド・バラク]]の[[インティファーダ]]問題担当補佐官となる。1992年、作戦局長補佐官に任命。1995年、退役。


1996年5月、[[シモン・ペレス]]内閣の下で、内閣府対テロ課副課長に任命。同年6月、[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]の首相就任と共に、同課課長となる。1997年10月、[[アンマン]]での[[ハマース]]の指導者の暗殺の失敗により辞任。
1996年5月、[[シモン・ペレス]]内閣の下で、内閣府対テロ課副課長に任命。同年6月、[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]の[[イスラエルの首相|首相]]就任と共に、同課課長となる。1997年10月、[[アンマン]]での[[ハマース]]の指導者の暗殺の失敗により辞任。


2000年末、「リクード」の選挙本部に加わる。1999年末から2000年始めにかけて、[[イスラエル諜報特務局|モサッド]]長官も、[[イスラエル総保安局|シャバック]]長官も引き受けないと公言していた。
2000年末、「リクード」の選挙本部に加わる。1999年末から2000年始めにかけて、[[イスラエル諜報特務局|モサッド]]長官も、[[イスラエル総保安局|シャバック]]長官も引き受けないと公言していた。


2002年、[[アリエル・シャロン]]首相は、ダガンを[[イスラエル諜報特務局]]長官に任命した。ただ、2010年1月に[[ドバイ]]で[[ハマース]]幹部を暗殺した際、偽造旅券を同組織の工作員が使用していた疑惑が浮上<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/8523588.stm Dubai police chief in Mossad arrest call]BBC・NEWS,2010年2月19日</ref> 。これにより、更迭への流れが強まり、同年11月に退任へと至る。また、ダガン更迭を巡ってはネタニヤフ首相との確執も囁かれている。イスラエルが最大の脅威と位置づける[[イランの核開発問題]]を巡って両者の認識は大きく食い違っており、ダガンが核武装の実現が2015年と位置付けているのに対し、ネタニヤフは核武装実現はそれ以前に成され、実現阻止の為に先制攻撃も辞さない考えを示している<ref>[http://www.jpost.com/Defense/Article.aspx?ID=204007&R=R1 Dagan backpedals: Iran may have nukes before 2015]J・POST,2011年1月17日</ref> 。
2002年、[[アリエル・シャロン]]首相は、ダガンを[[イスラエル諜報特務局]]長官に任命した。

== 脚注 ==
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2011年3月5日 (土) 15:24時点における版

メイール・ダガン
1945年 -
生誕 ロシア
軍歴 1963~1995
戦闘 第三次中東戦争
第四次中東戦争
除隊後 政治家
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メイール・ダガン(Meir Dagan、1945年 - )は、イスラエルの軍人、政治家。退役少将。イスラエル諜報特務局長官。対テロ、アラブ問題の専門家。

経歴・軍歴

生名メイール・フーベルマン(Meir Huberman)としてロシアノヴォシビルスクに生まれる。1950年、家族と共にイスラエルに移住。イスラエル国防軍に入隊し、空挺部隊に勤務。1967年からイスラエルが係わる全ての戦争に参加した。1970年代、対テロ部隊「リモン」(後の「ドゥヴデヴァン」、「シムション」部隊)創設の発議者。1980年代中盤、南レバノン軍の創設者の1人となる。

1991年、当時の参謀総長エフード・バラックインティファーダ問題担当補佐官となる。1992年、作戦局長補佐官に任命。1995年、退役。

1996年5月、シモン・ペレス内閣の下で、内閣府対テロ課副課長に任命。同年6月、ベンヤミン・ネタニヤフ首相就任と共に、同課課長となる。1997年10月、アンマンでのハマースの指導者の暗殺の失敗により辞任。

2000年末、「リクード」の選挙本部に加わる。1999年末から2000年始めにかけて、モサッド長官も、シャバック長官も引き受けないと公言していた。

2002年、アリエル・シャロン首相は、ダガンをイスラエル諜報特務局長官に任命した。ただ、2010年1月にドバイハマース幹部を暗殺した際、偽造旅券を同組織の工作員が使用していた疑惑が浮上[1] 。これにより、更迭への流れが強まり、同年11月に退任へと至る。また、ダガン更迭を巡ってはネタニヤフ首相との確執も囁かれている。イスラエルが最大の脅威と位置づけるイランの核開発問題を巡って両者の認識は大きく食い違っており、ダガンが核武装の実現が2015年と位置付けているのに対し、ネタニヤフは核武装実現はそれ以前に成され、実現阻止の為に先制攻撃も辞さない考えを示している[2]

脚注


先代
エフライム・ハレヴィー
モサッド長官
2002年 - 2011年
次代
タミール・パルドー