「ウラカ (カスティーリャ女王)」の版間の差分
Luckas-bot (会話 | 投稿記録) m r2.7.1) (ロボットによる 追加: hr:Uraka Leonska i Kastiljska |
メロヴィングカロリングカペーヴァロワブルボン (会話)さんによる1版を差し戻し: WP:NOR (Twinkle使用) タグ: 取り消し モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
||
(20人の利用者による、間の37版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{基礎情報 君主 |
|||
{{Redirect|ウラッカ・デ・カスティーリャ|[[アフォンソ2世 (ポルトガル王)]] の王妃|ウラッカ・デ・カスティーリャ (ポルトガル王妃)}} |
|||
| 人名 = ウラカ |
|||
[[Image:Doña Urraca.jpg|thumb|left|200px|ウラカ女王像]] |
|||
| 各国語表記 = Urraca |
|||
'''ウラカ'''(Urraca, [[1082年]] - [[1126年]][[3月8日]])は、[[カスティーリャ王国]]の[[カスティーリャ君主一覧|女王]](在位:[[1109年]] - [[1126年]])。[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]と2番目の王妃[[コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ]]の娘。 |
|||
| 君主号 = [[カスティーリャ君主一覧|カスティーリャ女王]]<br>[[レオン君主一覧|レオン女王]] |
|||
| 継承者 = |
|||
| 継承形式 = |
|||
| 画像 = UrracaRegina TumboA.jpg |
|||
| 画像サイズ = |
|||
| 画像説明 = |
|||
| 在位 = [[1109年]] - [[1126年]] |
|||
| 戴冠日 = |
|||
| 別号 = [[ガリシア王国|ガリシア女王]] |
|||
| 全名 = |
|||
| 出生日 = [[1082年]] |
|||
| 生地 = {{KOC}}、[[ブルゴス]] |
|||
| 死亡日 = [[1126年]][[3月8日]] |
|||
| 没地 = {{KOC}}、サルダーニャ・デ・ブルゴス |
|||
| 埋葬日 = |
|||
| 埋葬地 = {{KOL}}、サン・イシドロ・デ・レオン教会 |
|||
| 配偶者1 = [[ライムンド・デ・ボルゴーニャ|ガリシア伯ライムンド]] |
|||
| 配偶者2 = [[アルフォンソ1世 (アラゴン王)|アラゴン王およびナバラ王アルフォンソ1世]] |
|||
| 配偶者3 = ララ伯ペドロ・ゴンサレス |
|||
| 子女 = サンチャ<br>[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]] |
|||
| 王家 = [[ヒメノ家]] |
|||
| 王朝 = [[ヒメノ朝]] |
|||
| 王室歌 = |
|||
| 父親 = [[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]] |
|||
| 母親 = [[コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ]] |
|||
}} |
|||
[[File:Doña Urraca.jpg|thumb|200px|ウラカ女王像]] |
|||
'''ウラカ'''(Urraca, [[1082年]] - [[1126年]][[3月8日]])は、[[カスティーリャ王国]]の[[カスティーリャ君主一覧|女王]](在位:[[1109年]] - 1126年<ref>{{Harvnb|浅野|2003|p=6}}</ref>)。[[レオン王国]]の女王も兼ねる<ref>{{Cite book|和書|author=池田健二|year=2011|title=カラー版 スペイン・ロマネスクへの旅|accessdate=2013-5|page=216|isbn=978-4-12-102102-1}}この女王の時代に一旦カスティーリャとレオンは統合するが、後にまた分離する。</ref>。また、「全[[ヒスパニア]]の女皇帝」も称した。[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]と2番目の王妃[[コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ]]の娘。 |
|||
母を通じ、フランスの[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ロベール1世 (ブルゴーニュ公)|ロベール1世]]と初婚の妃で[[スミュール家]]出身である[[エリー・ド・スミュール=アン=ブリオネ|エリー・ド・スミュール]]の外孫、母コンスタンサの実弟[[クリュニー修道院]]長[[クリュニーのユーグ|ユーグ]]の姪に当たる。 |
|||
父王には嫡男がなく、彼女以外の嫡出子も夭折したため、王位についた。 |
|||
== 生涯 == |
|||
最初の夫、[[ライムンド・デ・ボルゴーニャ|ガリシア伯ライムンド]]との間にサンチャ、アルフォンソ(のちの[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]])を生んだ。 |
|||
父アルフォンソ6世と2人目の王妃コンスタンサとの間に第一子長女として生まれる。嫡出の一人娘であったが、幼少の頃の記録はほとんど残っていない。 |
|||
[[1093年]]に父王が迎えた4人目の[[ムーア人]]の妃サイーダに異母弟サンチョが生まれたことで、サンチョは非嫡出子扱いであったためほとんどの司教達から王位継承を反対されていたが、アルフォンソ6世の主導により継承権はサンチョに譲渡され、一度ウラカ王位継承権はから外れた。後1108年、サンチョがにウクレスの戦いで戦死してしまい、他に嫡出男子がなく、嫡出女子もウラカ以外は夭折したため、1109年の父王崩御により王位についた。 |
|||
2度目の結婚相手は、[[アラゴン君主一覧|アラゴン王]][[アルフォンソ1世 (アラゴン王)|アルフォンソ1世]]である。のち[[近親婚]]を理由に結婚を解消する。 |
|||
初婚で、[[1095年]]に[[ガリシア州|ガリシア]]伯[[ライムンド・デ・ボルゴーニャ|ライムンド]]と結婚し、サンチャ、アルフォンソ・ラミレス(後の[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]])を生んだ<ref>{{Citation |和書|author=関哲行|title=12世紀前半のサンチャゴ・デ・コンポステラにおけるコミューン運動(中)|periodical=流通経済大学社会学部論叢|issn=0917222X|publisher=[[流通経済大学]]|year=1991|page=116|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110007190857/}}</ref>が、ライムンドは[[1107年]]に亡くなった<ref>芝、P113 - P114</ref><ref name="関151">関(2008年)、P151。</ref>。 |
|||
3度目の夫は、ララ伯爵ペドロ・ゴンザレスである。 |
|||
ウラカは亡夫の後を継いで、ガリシアの領主となった。 それまでの彼女は、夫の影に隠れて従属的な立場にあったようだが、夫の死後、ウラカは地域の政治で主導的な役割を担うようになり、それは決して失われることはなかった。 |
|||
[[1108年]]に父アルフォンソは[[ムラービト朝]]の脅威からカスティーリャを守るため、ウラカを後継者に、孫アルフォンソを亡き婿ライムンドの後継者に定め、ウラカが再婚した場合、息子アルフォンソがガリシアを統治する権利を認め、同時に[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[アルフォンソ1世 (アラゴン王)|アルフォンソ1世]]との再婚を発表した。しかし、[[トレド]]大司教セディラックのベルナールは、ウラカとアルフォンソが又従兄妹同士であることを強調して結婚に反対されていた。 |
|||
ちなみにこの頃、ウラカは求婚者の一人カスティーリャの貴族ララ伯家のゴメス・ゴンサレスと恋愛関係にあった。同年1108年5月29日、王太子であった異母弟サンチョがウクレスでアルモラヴィッドとの戦いで戦死した。 |
|||
これにより王位継承のためウラカは1109年にアルフォンソ1世と再婚し、互いに相手の王国の「ソベラナ・ポテスタ(''soberana potestas'' )」を認め、将来の子供の相続人になることを宣言し、万が一、子供が生まれなかった場合には、生存した配偶者が相手の王位を継承するという協定を結び、夫アルフォンソ1世はすべての財産の共同主権者となった。 |
|||
が、<ref name="関151">関(2008年)、P151。</ref>カスティーリャとアラゴンの合同は貴族から不評が相次ぎ、先夫との息子アルフォンソを擁立しようと考える派閥も現れた。 |
|||
この結婚は失敗であり、恋愛体質で気まぐれなウラカと対照的にアルフォンソ1世は粗野な軍人肌の性格だったため2人の相性も悪く、さらにアルフォンソ1世は有名な[[ミソジニー|女性蔑視]]論者であり、さらに継子のアルフォンソ王子を嫌っていた。一方ウラカは迷信的で特にカラスやライオンを恐れ、ガリシア地方での戦いの際には、[[モンテローソ]]でウラカの保護を求めたガリシア貴族を殺害した夫を軽蔑していた。またアルフォンソ1世は派宮廷で定期的にウラカを辱め、公衆の面前で彼女を殴ったり蹴ったり暴力を振るうこともあったとも伝えられている。夫婦間に不協和音が出たカスティーリャは内乱に陥ってしまった<ref name="関151">関(2008年)、P151。</ref><ref>ローマックス、P104、芝、P114 - P115。</ref>。しかしながら、ウラカが夫と別れた正確な状況は不明とされている。 |
|||
異母姉[[テレサ・デ・レオン|テレサ]]と夫の[[ポルトゥカーレ伯領|ポルトゥカーレ伯]][[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|エンリケ]]が独立を画策、[[サアグン (スペイン)|サアグン]]も自治コミューンを樹立してアルフォンソ1世と提携する中<ref name="関151">関(2008年)、P151。</ref>、[[1111年]]にウラカは[[近親婚]]を理由にアルフォンソ1世との結婚を解消、同時代の資料によれば、彼女は助言者と相談した後、アルフォンソのもとを去ったという。アルフォンソ1世はウラカの不貞を否定し、彼女が「好きなことをする自由」を与えたと記している。ウラカが2人目の夫と一緒にいたことを示す最後の文書は、[[1112年]]5月22日に発行されている。 |
|||
アルフォンソ1世はアラゴンへ戻った後、[[1116年]]にウラカは支援を失ったサアグンを制圧した<ref>関(2008年)、P156 - P157。</ref>。しかし、東はアルフォンソ1世の侵攻に晒され[[カラオラ]]・[[タラソナ]]・[[トゥデラ]]・[[エピラ]]・[[ボルハ (サラゴサ県)|ボルハ]]などを[[1119年]]に奪われ、西はポルトゥカーレが独立へ進み、カスティーリャの弱体化が明らかになった<ref>ローマックス、P115、P125。</ref>。 |
|||
この隙にムラービト朝がカスティーリャへの攻撃を開始、[[トレド]]を攻撃して[[タホ川]]流域の他の都市も襲撃して奪い取ったが、トレドを含む一部の自治都市の抵抗で持ちこたえ、結果的に小競り合いに終始してカスティーリャへの侵攻は阻止された<ref name="関151">関(2008年)、P151。</ref><ref>ローマックス、P104 - P107、P110、芝、P115。</ref>。苦難に満ちた治世を過ごした後、1126年に44歳で亡くなり、息子がカスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世として即位した。 |
|||
3度目の夫は、ララ伯ペドロ・ゴンサレスである。 |
|||
[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]に存在する[[聖遺物]]の1つである「[[ヤコブ (アルファイの子)|小ヤコブ]]の頭部」をもたらした<ref>{{Harvnb|浅野|2003|p=7}}</ref>。これは当初、同聖地においては失われたとされていた「[[ヤコブ (ゼベダイの子)|大ヤコブ]]の頭部」という触れ込みであった<ref>{{Harvnb|浅野|2003|p=12}}</ref>。 |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
<references/> |
|||
== 参考文献 == |
|||
*{{Citation|和書 |
|||
|last=浅野 |
|||
|first=ひとみ |
|||
|year=2003 |
|||
|title=スペイン・ロマネスク彫刻研究-サンティアゴ巡礼の時代と美術 |
|||
|edition=1 |
|||
|publisher=[[九州大学出版会]] |
|||
|series=長崎純心大学学術叢書 |
|||
|volume=5 |
|||
|isbn=978-4-87378-771-8 |
|||
}} |
|||
* D.W.ローマックス著、[[林邦夫]]訳『レコンキスタ <small>中世スペインの国土回復運動</small>』[[刀水書房]]、1996年。 |
|||
* [[芝修身]]『真説レコンキスタ <small><イスラームVSキリスト教>史観をこえて</small>』[[書肆心水]]、2007年。 |
|||
* [[関哲行]]・[[立石博高]]・[[中塚次郎]]『世界歴史大系 スペイン史 1 <small>-古代~中世-</small>』[[山川出版社]]、2008年。 |
|||
{{カスティーリャ王|1109年 - 1126年|女王}} |
{{カスティーリャ王|1109年 - 1126年|女王}} |
||
{{レオン王|1109年 - 1126年|女王}} |
{{レオン王|1109年 - 1126年|女王}} |
||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:うらつか}} |
|||
{{DEFAULTSORT:うらか}} |
|||
[[Category:カスティーリャ国王]] |
|||
[[Category:カスティーリャ女王]] |
|||
[[Category:レオンの君主]] |
[[Category:レオンの君主]] |
||
[[Category:アラゴンの王妃]] |
[[Category:アラゴンの王妃]] |
||
[[Category:ナバラの王妃]] |
[[Category:ナバラの王妃]] |
||
[[Category:ヒメノ家]] |
[[Category:ヒメノ家]] |
||
[[Category:12世紀スペインの女性]] |
|||
[[Category:12世紀の女性君主]] |
|||
[[Category:1082年生]] |
[[Category:1082年生]] |
||
[[Category:1126年没]] |
[[Category:1126年没]] |
||
[[Category:女性皇帝]] |
|||
{{History-stub}} |
|||
[[an:Urraca I de Leyón]] |
|||
[[ca:Urraca I de Lleó]] |
|||
[[cs:Urraca Kastilská]] |
|||
[[de:Urraca I. (Kastilien und León)]] |
|||
[[en:Urraca of León and Castile]] |
|||
[[es:Urraca I de León]] |
|||
[[eu:Urraka Gaztelakoa]] |
|||
[[fi:Urraca (Kastilia)]] |
|||
[[fr:Urraque Ire de León]] |
|||
[[gl:Urraca de León]] |
|||
[[hr:Uraka Leonska i Kastiljska]] |
|||
[[hu:Urraca kasztíliai királynő]] |
|||
[[it:Urraca I di León]] |
|||
[[lt:Uraka]] |
|||
[[nl:Urraca van Castilië en León (1082-1126)]] |
|||
[[pl:Urraka Kastylijska]] |
|||
[[pt:Urraca I de Leão e Castela]] |
|||
[[ru:Уррака (королева Кастилии)]] |
|||
[[sv:Urraca av León och Kastilien]] |
|||
[[zh:烏拉卡 (卡斯蒂利亞)]] |
2024年5月31日 (金) 23:29時点における最新版
ウラカ Urraca | |
---|---|
カスティーリャ女王 レオン女王 | |
| |
在位 | 1109年 - 1126年 |
別号 | ガリシア女王 |
出生 |
1082年 |
死去 |
1126年3月8日 |
埋葬 |
|
配偶者 | ガリシア伯ライムンド |
アラゴン王およびナバラ王アルフォンソ1世 | |
ララ伯ペドロ・ゴンサレス | |
子女 |
サンチャ アルフォンソ7世 |
家名 | ヒメノ家 |
王朝 | ヒメノ朝 |
父親 | アルフォンソ6世 |
母親 | コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ |
ウラカ(Urraca, 1082年 - 1126年3月8日)は、カスティーリャ王国の女王(在位:1109年 - 1126年[1])。レオン王国の女王も兼ねる[2]。また、「全ヒスパニアの女皇帝」も称した。アルフォンソ6世と2番目の王妃コンスタンサ・デ・ボルゴーニャの娘。
母を通じ、フランスのブルゴーニュ公ロベール1世と初婚の妃でスミュール家出身であるエリー・ド・スミュールの外孫、母コンスタンサの実弟クリュニー修道院長ユーグの姪に当たる。
生涯[編集]
父アルフォンソ6世と2人目の王妃コンスタンサとの間に第一子長女として生まれる。嫡出の一人娘であったが、幼少の頃の記録はほとんど残っていない。
1093年に父王が迎えた4人目のムーア人の妃サイーダに異母弟サンチョが生まれたことで、サンチョは非嫡出子扱いであったためほとんどの司教達から王位継承を反対されていたが、アルフォンソ6世の主導により継承権はサンチョに譲渡され、一度ウラカ王位継承権はから外れた。後1108年、サンチョがにウクレスの戦いで戦死してしまい、他に嫡出男子がなく、嫡出女子もウラカ以外は夭折したため、1109年の父王崩御により王位についた。
初婚で、1095年にガリシア伯ライムンドと結婚し、サンチャ、アルフォンソ・ラミレス(後のアルフォンソ7世)を生んだ[3]が、ライムンドは1107年に亡くなった[4][5]。
ウラカは亡夫の後を継いで、ガリシアの領主となった。 それまでの彼女は、夫の影に隠れて従属的な立場にあったようだが、夫の死後、ウラカは地域の政治で主導的な役割を担うようになり、それは決して失われることはなかった。
1108年に父アルフォンソはムラービト朝の脅威からカスティーリャを守るため、ウラカを後継者に、孫アルフォンソを亡き婿ライムンドの後継者に定め、ウラカが再婚した場合、息子アルフォンソがガリシアを統治する権利を認め、同時にアラゴン王アルフォンソ1世との再婚を発表した。しかし、トレド大司教セディラックのベルナールは、ウラカとアルフォンソが又従兄妹同士であることを強調して結婚に反対されていた。
ちなみにこの頃、ウラカは求婚者の一人カスティーリャの貴族ララ伯家のゴメス・ゴンサレスと恋愛関係にあった。同年1108年5月29日、王太子であった異母弟サンチョがウクレスでアルモラヴィッドとの戦いで戦死した。
これにより王位継承のためウラカは1109年にアルフォンソ1世と再婚し、互いに相手の王国の「ソベラナ・ポテスタ(soberana potestas )」を認め、将来の子供の相続人になることを宣言し、万が一、子供が生まれなかった場合には、生存した配偶者が相手の王位を継承するという協定を結び、夫アルフォンソ1世はすべての財産の共同主権者となった。
が、[5]カスティーリャとアラゴンの合同は貴族から不評が相次ぎ、先夫との息子アルフォンソを擁立しようと考える派閥も現れた。
この結婚は失敗であり、恋愛体質で気まぐれなウラカと対照的にアルフォンソ1世は粗野な軍人肌の性格だったため2人の相性も悪く、さらにアルフォンソ1世は有名な女性蔑視論者であり、さらに継子のアルフォンソ王子を嫌っていた。一方ウラカは迷信的で特にカラスやライオンを恐れ、ガリシア地方での戦いの際には、モンテローソでウラカの保護を求めたガリシア貴族を殺害した夫を軽蔑していた。またアルフォンソ1世は派宮廷で定期的にウラカを辱め、公衆の面前で彼女を殴ったり蹴ったり暴力を振るうこともあったとも伝えられている。夫婦間に不協和音が出たカスティーリャは内乱に陥ってしまった[5][6]。しかしながら、ウラカが夫と別れた正確な状況は不明とされている。
異母姉テレサと夫のポルトゥカーレ伯エンリケが独立を画策、サアグンも自治コミューンを樹立してアルフォンソ1世と提携する中[5]、1111年にウラカは近親婚を理由にアルフォンソ1世との結婚を解消、同時代の資料によれば、彼女は助言者と相談した後、アルフォンソのもとを去ったという。アルフォンソ1世はウラカの不貞を否定し、彼女が「好きなことをする自由」を与えたと記している。ウラカが2人目の夫と一緒にいたことを示す最後の文書は、1112年5月22日に発行されている。
アルフォンソ1世はアラゴンへ戻った後、1116年にウラカは支援を失ったサアグンを制圧した[7]。しかし、東はアルフォンソ1世の侵攻に晒されカラオラ・タラソナ・トゥデラ・エピラ・ボルハなどを1119年に奪われ、西はポルトゥカーレが独立へ進み、カスティーリャの弱体化が明らかになった[8]。
この隙にムラービト朝がカスティーリャへの攻撃を開始、トレドを攻撃してタホ川流域の他の都市も襲撃して奪い取ったが、トレドを含む一部の自治都市の抵抗で持ちこたえ、結果的に小競り合いに終始してカスティーリャへの侵攻は阻止された[5][9]。苦難に満ちた治世を過ごした後、1126年に44歳で亡くなり、息子がカスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世として即位した。
3度目の夫は、ララ伯ペドロ・ゴンサレスである。
サンティアゴ・デ・コンポステーラに存在する聖遺物の1つである「小ヤコブの頭部」をもたらした[10]。これは当初、同聖地においては失われたとされていた「大ヤコブの頭部」という触れ込みであった[11]。
脚注[編集]
- ^ 浅野 2003, p. 6
- ^ 池田健二『カラー版 スペイン・ロマネスクへの旅』2011年、216頁。ISBN 978-4-12-102102-1。この女王の時代に一旦カスティーリャとレオンは統合するが、後にまた分離する。
- ^ 関哲行「12世紀前半のサンチャゴ・デ・コンポステラにおけるコミューン運動(中)」『流通経済大学社会学部論叢』、流通経済大学、116頁、1991年。ISSN 0917222X 。
- ^ 芝、P113 - P114
- ^ a b c d e 関(2008年)、P151。
- ^ ローマックス、P104、芝、P114 - P115。
- ^ 関(2008年)、P156 - P157。
- ^ ローマックス、P115、P125。
- ^ ローマックス、P104 - P107、P110、芝、P115。
- ^ 浅野 2003, p. 7
- ^ 浅野 2003, p. 12