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2009年9月11日 (金) 19:41時点における版
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基本情報 | ||||
本名 |
Alessandro Petacchi アレッサンドロ・ペタッキ | |||
愛称 | アレ・ジェット | |||
生年月日 | 1974年1月3日(50歳) | |||
国籍 | イタリア | |||
身長 | 184cm | |||
体重 | 73kg | |||
選手情報 | ||||
所属 | LPR・ブレークス | |||
分野 | ロードレース | |||
役割 | 選手 | |||
特徴 | スプリンター | |||
プロ経歴 | ||||
1996–1998 1999 2000–2005 2006–2008 2009– |
スクリーニョ ナビガーレ・ガエルネ ファッサボルトロ チーム・ミルラム LPR・ブレークス | |||
主要レース勝利 | ||||
ジロ・デ・イタリア ポイント賞 (2004) ブエルタ・ア・エスパーニャ ポイント賞 (2005) ツール・ド・フランス 通算4勝 ジロ・デ・イタリア 通算21勝 ブエルタ・ア・エスパーニャ 通算19勝 | ||||
最終更新日 2009年9月12日 |
アレサンドロ・ペタッキ(Alessandro Petacchi、1974年1月3日-)はイタリア・リグーリア州ラ・スペツィア生まれの自転車プロロードレース選手。1996年スクリーニョ・ブルーストームでプロデビュー。爆発的なスプリント力を持ち「アレ・ジェット (Ale-Jet)」の異名で呼ばれるスプリンター。ステージレースを中心に、数多くのレースで優勝を飾っており、特にジロ・デ・イタリアでは2004年にスプリント賞を獲得したほか、年間ステージ最多勝記録(9勝)も保持している。
略歴
12歳の時、実父の影響で競技用自転車に乗り始め、まもなくレースに参加し始めるようになる(最初に参加したレースは4位であったと本人は語っている)。
プロデビューしてからしばらくはスプリンターとしての才能を自覚しておらず、 ファブリッツィオ・グイディのアシストを務めていた。
しかし ファッサボルトロに移籍した2000年にブエルタ・ア・エスパーニャでの2勝を含む9勝をあげ、2001年は5勝に留まるが、2002年は再びブエルタ・ア・エスパーニャでも勝利して年間12勝。徐々に才能を開花させていく。
そして2003年、ジロ・デ・イタリアの第1ステージで勝利をあげると、その勢いのままジロ・デ・イタリアでは6勝。さらにツール・ド・フランスとブエルタ・ア・エスパーニャでもそれぞれ4勝をあげて、グランツールの年間最多ステージ優勝を記録する大活躍をみせ、トップスプリンターとしての地位を確立した。
翌2004年には、ジロ・デ・イタリアの全21ステージ中9ステージで優勝。圧倒的な成績で、初のポイント賞を獲得し、続く2005年もスプリンターの憧れであるミラノ~サンレモで優勝。ジロ・デ・イタリアでステージ4勝。ブエルタ・ア・エスパーニャではステージ4勝に加え、ポイント賞も獲得し、年間を通して大活躍した。
ファッサボルトロの解散に伴い、2006年からは チーム・ミルラムに移籍。同じく移籍してきたエリック・ツァベルをアシストに従え、ティレーノ~アドリアティコでステージ優勝とポイント賞を獲得するなど、活躍が期待されたが、ジロ・デ・イタリアの第3ステージで落車。膝の骨を割る大怪我を負ってしまう。8月に復帰はしたものの、それまでの力強いスプリントは影を潜めてしまい、ライバルたちの後塵を拝し続けることになる。そしてブエルタ・ア・エスパーニャの第15ステージ終了後、スプリントで負けた苛立ちからチームバスを殴りつけた勢いで右手を骨折してしまいリタイア。いいところを見せられないままシーズンを終了した。
2007年もミラノ~サンレモでオスカル・フレイレに惨敗するなど不調が続いたが、ジロ・デ・イタリアの第3ステージで優勝したのを皮切りに、ステージ5勝とポイント賞。見事な復活劇となった。しかし第11ステージのドーピング検査で陽性となり、持病の気管支喘息の治療薬であるサルブタモールの過剰摂取が判明。本人は偶然ということで無罪を訴えたが、CONI(イタリア五輪委員会)が1年の出場停止処分を求めたのに対して、FCI(イタリア自転車連盟)は故意の摂取ではないので処分は不要と主張して対立。結局、正式な処分は出ないまま、2か月間レースへの出場を見合わせることになり、ツール・ド・フランスへの出場も直前になって取り消す羽目になった。[1]
しかし復帰後の ブエルタ・ア・エスパーニャでは2勝し、シーズン終盤のクラシックレースであるパリ〜ツールも制してシーズンを終えたが、この後FCIの対応を不満としたCONIはCAS(スポーツ仲裁裁判所)へ提訴。年をまたぐ事態になってしまった。
2008年はパレンシア一周でのステージ優勝など春先から活躍していたが、ジロ・デ・イタリアは気管支炎の悪化で出場をキャンセル。さらに5月7日にCASから2008年8月31日までレースへの出場停止の判決が下され、2007年のジロでの5つのステージ優勝やポイント賞は剥奪。さらに2007年10月31日以降獲得した各種タイトルも剥奪されることが決定。この判決を受けて16日にはミルラムとの契約も解除した。
処分期間が終わるのに合わせて2008年9月から、ダニーロ・ディルーカ擁するプロフェッショナルコンチネンタルチーム・LPRブレーキと2年半の契約を結んだ。2009年のジロ・デ・イタリアでは第2、第3ステージを連勝し、完全復活を印象付けた。
レーススタイル
チームメイトがゴール前で一列になって高速走行するトレインを作り、その後ろについて加速し、ラスト数100mを駆け抜けるスプリントスタイルが必勝パターンであった。そのため、ゴール前が混戦になってトレインがうまく組めなかったり、組めても加速が十分でない場合は、まったくと言ってよいほど勝つことができないと思われていた。またスプリンターの常として上りを苦手としており、山岳ステージに入ったとたんに棄権するといったことも少なくなかった。 ペタッキ自身も、自分がロビー・マキュアンやオスカル・フレイレのように一人でも勝つことができるタイプではなく、チームの力によって勝てるスプリンターであるということを認めていた。
しかし、復帰直後の2009年のジロ・デ・イタリア第2、第3ステージではトレインの援護なしにステージ優勝を遂げた。レース後のインタビューにおいてペタッキは「体重が軽くなったおかげで、上りも大丈夫になったし、ゴール1キロ前までチームメイトのサポートがあったからそれで十分だ」と語っている。[1]実際にこの年のジロでは、山岳ステージであってもチームのエースであるダニーロ・ディルーカを献身的にアシストする場面が多く見られた。
人物
- 好物はニョッキ。特にトマトソースのニョッキを好む。パスタ、ヌテッラ(パン等に塗るチョコレートソース)を塗ったパンも好物である。日本食のワサビは苦手。趣味は釣りで特に湖でのカルペ(鯉)釣りを好む。愛車はポルシェ。(2005年現在)
- 子供の頃憧れの選手はジュゼッペ・サロンニ(ジロ・デ・イタリアで総合優勝2回、スプリント賞4回を誇る名選手)だった。ちなみに2004年にペタッキが最多ステージ優勝記録を塗り替えるまでは、サロンニの挙げたステージ7勝が最多ステージ勝利記録であった。
- 輝かしい成績とは裏腹に、レース中でもかなりナーバスな面を見せることが多い。2006年のブエルタでの失態も精神面の弱さに起因するものであろう。「自分を抑え切れなかった」と本人もコメントしている。[2]
エピソード
- 2002年の世界選手権でイタリアチームのアシストを務め、マリオ・チポリーニの優勝に貢献しているが、翌2003年のジロ・デ・イタリア第1ステージで、そのチポリーニを破ってマリア・ローザを獲得したときが、今までの人生で最高にハッピーだった瞬間だったと取材で語っている。
- 2003年のパリ〜ツールで勝ったと思い両手を上げた瞬間、その後ろから飛び込んできたエリック・ツァベルに差されて勝利を奪い取られる失態を犯したことがある。[3]
所属チーム
- 1996-1998年 スクリーニョ(1996年 Scrigno・Blue Storm、1997-1998年Scrigno・Gaerne)
- 1999年 ナビガーレ・ガエルネ
- 2000年-2005年 ファッサボルトロ
- 2006年-2008年 チーム・ミルラム
- 2008年9月- LPRブレーキ
主な成績
グランツール
- ツール・ド・フランス 通算4勝
- ジロ・デ・イタリア 通算21勝
- ブエルタ・ア・エスパーニャ 通算19勝
- ジロ・デ・イタリア ポイント賞(2004年)
- ブエルタ・ア・エスパーニャ ポイント賞(2005年)
- 2000年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 2勝
- 2002年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 1勝
- 2003年 ジロ・デ・イタリア 6勝 ツール・ド・フランス 4勝 ブエルタ・ア・エスパーニャ 5勝
- 2004年 ジロ・デ・イタリア 9勝 ブエルタ・ア・エスパーニャ 4勝
- 2005年 ジロ・デ・イタリア 4勝 ブエルタ・ア・エスパーニャ 5勝
- 2007年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 2勝
- 2009年 ジロ・デ・イタリア 2勝
ステージレース
- 2006年 ティレーノ〜アドリアティコ ポイント賞
- 2002年 パリ〜ニース 2勝
- 2003年 パリ〜ニース 1勝
- 2004年 ティレーノ〜アドリアティコ 3勝
- 2005年 ティレーノ〜アドリアティコ 3勝 ツール・ド・ロマンディ2勝
- 2006年 ティレーノ〜アドリアティコ 1勝
- 2009年 ティレーノ〜アドリアティコ 1勝
ワンデイレース
- 2005年 ミラノ〜サンレモ優勝
- 2007年 パリ〜ツール優勝
- 2009年 スヘルデプライス優勝
脚注
- ^ “92nd Giro d'Italia - GTItaly, May 9-31, 2009”. 2009年5月12日閲覧。
外部リンク
- Team-Milram公式サイト(英語)