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'''ショーン・タロー・オノ・レノン'''({{Lang-en|''Sean Taro Ono Lennon''}}、日本名:'''小野 太郎'''〈おの たろう〉、[[1975年]][[10月9日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]生まれの[[音楽家|ミュージシャン]]。[[日系アメリカ人]]。[[ジョン・レノン]]の次男。母は[[前衛芸術家]]の[[オノ・ヨーコ]]。[[チボ・マット]]のサポート・メンバーとして[[1990年代]]後半に活動し、[[2006年]]までにソロ・[[アルバム]]を3枚、ミニ・アルバムを1枚発売している。 |
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==生い立ち== |
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父親は[[ビートルズ]]であ |
父親は[[ビートルズ]]のメンバーであったイギリス人の[[ジョン・レノン]]で、母親は日本人の[[オノ・ヨーコ]]。レノン夫妻の結婚6年後にして初めて誕生した息子。誕生日は父と同じ10月9日である。母方の曾祖父に元[[日本興業銀行]][[総裁]]の[[小野英二郎]]と、[[実業家]]の[[安田善三郎]]がいる。高祖父は元[[宇和島藩]][[藩士]]・実業家の[[伊臣忠一]]と、[[安田財閥]]の創業者である[[安田善次郎]]。[[コロンビア大学]]を1年半で中退。 |
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名付け親は、別居したジョンとヨーコの縒りを戻すきっかけを作ってくれた[[エルトン・ジョン]]で、ジョン・レノンの民族的ルーツである[[アイルランド]]での「ジョン」に相当する最もポピュラーな男子名ということで、「ショーン」を提案したという。ミドルネームの「タロー」はジョンから「なにか日本語の名前を付けてくれ」と頼まれたヨーコにより「ジョン」に相当する日本語のポピュラーな男子名が「太郎」だということで名付けられた。 |
名付け親は、別居したジョンとヨーコの縒りを戻すきっかけを作ってくれた[[エルトン・ジョン]]で、ジョン・レノンの民族的ルーツである[[アイルランド]]での「ジョン」に相当する最もポピュラーな男子名ということで、「ショーン」を提案したという。ミドルネームの「タロー」はジョンから「なにか日本語の名前を付けてくれ」と頼まれたヨーコにより「ジョン」に相当する日本語のポピュラーな男子名が「太郎」だということで名付けられた。 |
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[[1984年]]に発表された、父・ジョンや[[エルヴィス・コステロ]]などによるヨーコの楽曲をカヴァーしたものを集めたコンピレーションアルバム、『Every Man Has A Woman~ジョンとヨーコの仲間たち』で初めてレコード・デビュー。 |
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1986年に[[エルヴィス・プレスリー]]が[[ロックの殿堂]]入りした際には、授賞式 |
1986年に[[エルヴィス・プレスリー]]が[[ロックの殿堂]]入りした際には、授賞式で異母兄の[[ジュリアン・レノン]]とともにプレゼンターを務めた。 |
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[[1988年]]に[[ビートルズ]]がロックの殿堂入りした際には、ビートルズの[[ジョージ・ハリスン]]と[[リンゴ・スター]]、ジュリアン・レノンなどとともにその授賞パーティに姿を見せた。また、同年公開のジョンの伝記映画『イマジン ジョン・レノン』、[[マイケル・ジャクソン]]の主演映画『[[ムーンウォーカー (映画)|ムーンウォーカー]]』などにも出演し、話題を呼んだ。 |
[[1988年]]に[[ビートルズ]]がロックの殿堂入りした際には、ビートルズの[[ジョージ・ハリスン]]と[[リンゴ・スター]]、ジュリアン・レノンなどとともにその授賞パーティに姿を見せた。また、同年公開のジョンの伝記映画『イマジン ジョン・レノン』、[[マイケル・ジャクソン]]の主演映画『[[ムーンウォーカー (映画)|ムーンウォーカー]]』などにも出演し、話題を呼んだ。 |
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ジョンが亡くなってから10年後の[[1990年]]には、ヨーコや[[佐野元春]]などによる企画盤『HAPPY BIRTHDAY, JOHN』に参加。[[1991年]]にリリースされた[[レニー・クラヴィッツ]]のアルバム『[[ママ・セッド]]』では「オール・アイ・エヴァー・ウォンテッド」を共作し、レコーディングにもゲスト参加した。[[1992年]]には |
ジョンが亡くなってから10年後の[[1990年]]には、ヨーコや[[佐野元春]]などによる企画盤『HAPPY BIRTHDAY, JOHN』に参加。[[1991年]]にリリースされた[[レニー・クラヴィッツ]]のアルバム『[[ママ・セッド]]』では「オール・アイ・エヴァー・ウォンテッド」を共作し、レコーディングにもゲスト参加した。[[1992年]]には、ジョンがショーンに捧げた「ビューティフル・ボーイ」がCFソングとして流れる[[資生堂]]のCMに出演している。 |
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[[1994年]]にジョンがソロ・アーティストとして殿堂入りを果たした際にも、[[ポール・マッカートニー]]と共に母子揃って授賞式に出席している。 |
[[1994年]]にジョンがソロ・アーティストとして殿堂入りを果たした際にも、[[ポール・マッカートニー]]と共に母子揃って授賞式に出席している。 |
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[[1990年代]]中盤からは、音楽家としての活動を本格的に始動。[[1995年]]発表の母ヨーコのアルバム『ライジング』ではバックバンド「IMA」として演奏面でも全面的にサポート。また、[[チボ・マット]]のサポート・メンバーとしても活躍した。 |
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[[1998年]]には、[[ビースティ・ボーイズ]]が主宰していたグランド・ロイヤル・レコードから初のソロ・アルバム『イントゥ・ザ・サン』を |
[[1998年]]には、[[ビースティ・ボーイズ]]が主宰していたグランド・ロイヤル・レコードから初のソロ・アルバム『イントゥ・ザ・サン』をチボ・マットの[[本田ゆか]]のプロデュースで発表。同年に、本田らチボ・マットのメンバーを従えた来日公演も行う。来日時に出演した[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系の音楽番組、『[[LOVE LOVEあいしてる]]』の1コーナー「プリプリプリティ」で、[[篠原ともえ]]と友達になる。ショーンは自身のミドルネームにちなんだ[[ウルトラマンタロウ]]のイラストを描いて見せ「ボクノ、ナマエハ、タローデス」と日本語で自己紹介している。後日篠原は、ショーンのステージにゲスト参加した。その影響からか、ウサギ耳にアニメのTシャツ、アクセサリー、可愛いデザインの[[フェルナンデス・ZO-3|ZO-3]]ギターを身に着けるなどショーン自身何度か「シノラー」化したこともある。 |
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翌年には、日本限定で[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] |
翌年には、日本限定で[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]から同作のバージョン違いやリミックス、アウトテイクなどを集めたミニアルバム『ハーフ・ホース、ハーフ・ミュージシャン』が発売された。この音源は、元々はアメリカ国内向けに作られたプロモーション・アルバムで、発売用に8曲目を追加したもの。 |
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[[2001年]]にグランド・ロイヤルが閉鎖した後は[[キャピトル・レコード]]と新たに契約を交わしている。その後の活動は、再び他アーティストの作品のゲスト参加が主となり、自身のソロ作品は長い間発表されなかった。 |
[[2001年]]にグランド・ロイヤルが閉鎖した後は[[キャピトル・レコード]]と新たに契約を交わしている。その後の活動は、再び他アーティストの作品のゲスト参加が主となり、自身のソロ作品は長い間発表されなかった。 |
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[[2008年]]5月から2014年まで[[ホンダ・フリード]]のCMに出演していた。ちなみに異母兄のジュリアン・レノンも1985年に[[ホンダ・シティ]]のCMに出演したことがある<ref>[http://www.honda.co.jp/FREED/gallery/ ホンダ・フリード スペシャルギャラリー]</ref><ref>[http://www.honda.co.jp/cmdata/auto/freed/ ホンダ・フリード CM INFORMATION]</ref>。 |
[[2008年]]5月から2014年まで[[ホンダ・フリード]]のCMに出演していた。ちなみに異母兄のジュリアン・レノンも1985年に[[ホンダ・シティ]]のCMに出演したことがある<ref>[http://www.honda.co.jp/FREED/gallery/ ホンダ・フリード スペシャルギャラリー]</ref><ref>[http://www.honda.co.jp/cmdata/auto/freed/ ホンダ・フリード CM INFORMATION]</ref>。 |
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[[2009年]]、自身が主宰するレーベルChimera Musicを設立。9月より、オノ・ヨーコらと共に[[プラスティック・オノ・バンド|YOKO ONO PLASTIC ONO BAND]]のバンド名義で活動。日本に長期滞在し、『[[徹子の部屋]]』などのテレビ番組に出演 |
[[2009年]]、自身が主宰するレーベルChimera Musicを設立。9月より、オノ・ヨーコらと共に[[プラスティック・オノ・バンド|YOKO ONO PLASTIC ONO BAND]]のバンド名義で活動。日本に長期滞在し、『[[徹子の部屋]]』などのテレビ番組にも出演。11月には[[東京国際フォーラム]]でライヴを行った。 |
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[[2013年]]、[[小山田圭吾]]に誘われて『[[攻殻機動隊 ARISE]]』第3話のエンディング曲に参加<ref>[http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/keigo-oyamada-koichiro-tsujikawa-interview 小山田圭吾 X 辻川幸一郎 対談]</ref>。日本のアニメが大好きで、すでに攻殻機動隊シリーズも見ていたという<ref>[https://natalie.mu/music/pp/sean_cornelius ショーン レノン×コーネリアス]</ref>。 |
[[2013年]]、[[小山田圭吾]]に誘われて『[[攻殻機動隊 ARISE]]』第3話のエンディング曲に参加<ref>[http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/keigo-oyamada-koichiro-tsujikawa-interview 小山田圭吾 X 辻川幸一郎 対談]</ref>。日本のアニメが大好きで、すでに攻殻機動隊シリーズも見ていたという<ref>[https://natalie.mu/music/pp/sean_cornelius ショーン レノン×コーネリアス]</ref>。 |
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* Heart Grenade - ショーン レノン コーネリアス」名義([[小山田圭吾|コーネリアス]]作曲、レノン作詞・歌唱)のコラボレーション曲。『[[攻殻機動隊 ARISE]]』第3話のエンディングテーマ<ref>[https://eiga.com/news/20140423/15/ 「攻殻機動隊ARISE」エンディングテーマでショーン・レノンとコーネリアスがコラボ] 2014年4月23日 映画.com</ref>。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2024年2月26日 (月) 19:23時点における最新版
ショーン・レノン | |
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フランス・ラモンビル=サン=タニュ公演(2015年) | |
基本情報 | |
出生名 | ショーン・タロー・オノ・レノン |
生誕 | 1975年10月9日(48歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1991年 - |
レーベル | |
著名な家族 |
ジョン・レノン(父) オノ・ヨーコ(母) 十三代目片岡仁左衛門(大伯父) 片岡孝太郎(再従兄) |
共同作業者 |
|
公式サイト | ショーン・レノン 公式サイト |
ショーン・タロー・オノ・レノン(英語: Sean Taro Ono Lennon、日本名:小野 太郎〈おの たろう〉、1975年10月9日 - )は、アメリカ生まれのミュージシャン。日系アメリカ人。ジョン・レノンの次男。母は前衛芸術家のオノ・ヨーコ。チボ・マットのサポート・メンバーとして1990年代後半に活動し、2006年までにソロ・アルバムを3枚、ミニ・アルバムを1枚発売している。
生い立ち[編集]
父親はビートルズのメンバーであったイギリス人のジョン・レノンで、母親は日本人のオノ・ヨーコ。レノン夫妻の結婚6年後にして初めて誕生した息子。誕生日は父と同じ10月9日である。母方の曾祖父に元日本興業銀行総裁の小野英二郎と、実業家の安田善三郎がいる。高祖父は元宇和島藩藩士・実業家の伊臣忠一と、安田財閥の創業者である安田善次郎。コロンビア大学を1年半で中退。
名付け親は、別居したジョンとヨーコの縒りを戻すきっかけを作ってくれたエルトン・ジョンで、ジョン・レノンの民族的ルーツであるアイルランドでの「ジョン」に相当する最もポピュラーな男子名ということで、「ショーン」を提案したという。ミドルネームの「タロー」はジョンから「なにか日本語の名前を付けてくれ」と頼まれたヨーコにより「ジョン」に相当する日本語のポピュラーな男子名が「太郎」だということで名付けられた。
ショーンが生まれて間もない頃、ジョンは絶え間のないレコード制作に辟易していたようで、その後所属レコード会社との契約が切れると何処のレーベルとも契約を交わすことなく音楽活動を停止している。
その後ジョンは主夫(ハウス・ハズバンド)となり、幼いショーンを育てることに没頭したと言われているが、実際のところどのような生活を送っていたかについては未だに明らかにされていないことも多く、この時期については謎も残っている。
1977年以降は一家で、日本の軽井沢にある小野家の別荘や、定宿の万平ホテルに長期間滞在し、主に旧軽井沢や離山房(喫茶店)でショーンを連れて歩くジョンの姿は現地で多く目撃されている。
1980年12月8日(日本時間9日)、ジョンが殺害される。この事件以降の数年間について、ヨーコは自らのアルバムのライナーノーツの中で「1981年から1983年にかけての私とショーンは、まるで雪原の中に二人して立っているような思いだった」と記している。ショーンは現場に居合わせておらず、後で「父(ジョン・レノン)が殺された」と母(オノ・ヨーコ)から聞かされると、その場で幼かったショーンは気丈に「ママは、キレイだからきっとまた良い人と巡り会えるよ」と言ったが、やはり父を亡くした悲しみとショックは大きかったようで、ベッド上で号泣していたという。
経歴[編集]
1984年に発表された、父・ジョンやエルヴィス・コステロなどによるヨーコの楽曲をカヴァーしたものを集めたコンピレーションアルバム、『Every Man Has A Woman~ジョンとヨーコの仲間たち』で初めてレコード・デビュー。
1986年にエルヴィス・プレスリーがロックの殿堂入りした際には、授賞式で異母兄のジュリアン・レノンとともにプレゼンターを務めた。
1988年にビートルズがロックの殿堂入りした際には、ビートルズのジョージ・ハリスンとリンゴ・スター、ジュリアン・レノンなどとともにその授賞パーティに姿を見せた。また、同年公開のジョンの伝記映画『イマジン ジョン・レノン』、マイケル・ジャクソンの主演映画『ムーンウォーカー』などにも出演し、話題を呼んだ。
ジョンが亡くなってから10年後の1990年には、ヨーコや佐野元春などによる企画盤『HAPPY BIRTHDAY, JOHN』に参加。1991年にリリースされたレニー・クラヴィッツのアルバム『ママ・セッド』では「オール・アイ・エヴァー・ウォンテッド」を共作し、レコーディングにもゲスト参加した。1992年には、ジョンがショーンに捧げた「ビューティフル・ボーイ」がCFソングとして流れる資生堂のCMに出演している。
1994年にジョンがソロ・アーティストとして殿堂入りを果たした際にも、ポール・マッカートニーと共に母子揃って授賞式に出席している。
1990年代中盤からは、音楽家としての活動を本格的に始動。1995年発表の母ヨーコのアルバム『ライジング』ではバックバンド「IMA」として演奏面でも全面的にサポート。また、チボ・マットのサポート・メンバーとしても活躍した。
1998年には、ビースティ・ボーイズが主宰していたグランド・ロイヤル・レコードから初のソロ・アルバム『イントゥ・ザ・サン』をチボ・マットの本田ゆかのプロデュースで発表。同年に、本田らチボ・マットのメンバーを従えた来日公演も行う。来日時に出演したフジテレビ系の音楽番組、『LOVE LOVEあいしてる』の1コーナー「プリプリプリティ」で、篠原ともえと友達になる。ショーンは自身のミドルネームにちなんだウルトラマンタロウのイラストを描いて見せ「ボクノ、ナマエハ、タローデス」と日本語で自己紹介している。後日篠原は、ショーンのステージにゲスト参加した。その影響からか、ウサギ耳にアニメのTシャツ、アクセサリー、可愛いデザインのZO-3ギターを身に着けるなどショーン自身何度か「シノラー」化したこともある。
翌年には、日本限定で東芝EMIから同作のバージョン違いやリミックス、アウトテイクなどを集めたミニアルバム『ハーフ・ホース、ハーフ・ミュージシャン』が発売された。この音源は、元々はアメリカ国内向けに作られたプロモーション・アルバムで、発売用に8曲目を追加したもの。
2001年にグランド・ロイヤルが閉鎖した後はキャピトル・レコードと新たに契約を交わしている。その後の活動は、再び他アーティストの作品のゲスト参加が主となり、自身のソロ作品は長い間発表されなかった。
2005年には、村上龍の同名小説が原作の映画『コインロッカー・ベイビーズ』に、浅野忠信らとともに出演する予定であることが日本のスポーツ紙に報道された。共同脚本にも参加している。しかし、現在に至るまで実現されていない。
2006年9月26日にアメリカで、2作目のソロ・アルバム『フレンドリー・ファイア』が8年ぶりにリリースされる。
その際、「今となっては浅はかだったが」と前置きした上で、自分が少年時代からのニルヴァーナファンで、ドラマーのデイヴ・グロールに「ニルヴァーナに入れてくれ」と手紙にデモテープを入れて頼んだ事があるのを明かした。返事は「君の送ってくれた音楽をいつも聞いているけど、フー・ファイターズという新バンドをやるので出来ない」というものだったが、新バンドが出来ることに喜んだという。「この方向がもし違ったら、自分の2枚目のアルバムが出来なかったかもしれない」と語っている。
2007年8月には、サマーソニック出演のため来日。次いで11月23日~30日には、東京・大阪・福岡のビルボード・ライヴにて単独来日公演を行う予定であったが、本人の都合により中止となった。
2008年5月から2014年までホンダ・フリードのCMに出演していた。ちなみに異母兄のジュリアン・レノンも1985年にホンダ・シティのCMに出演したことがある[2][3]。
2009年、自身が主宰するレーベルChimera Musicを設立。9月より、オノ・ヨーコらと共にYOKO ONO PLASTIC ONO BANDのバンド名義で活動。日本に長期滞在し、『徹子の部屋』などのテレビ番組にも出演。11月には東京国際フォーラムでライヴを行った。
2013年、小山田圭吾に誘われて『攻殻機動隊 ARISE』第3話のエンディング曲に参加[4]。日本のアニメが大好きで、すでに攻殻機動隊シリーズも見ていたという[5]。
ディスコグラフィ[編集]
スタジオ・アルバム[編集]
- イントゥ・ザ・サン - Into The Sun(1998年5月8日)
- ミステリー・ジュース - Mystery Juice
- イントゥ・ザ・サン - Into the Sun
- ホーム - Home
- バスタブ - Bathtub
- ワン・ナイト - One Night
- スペースシップ - Spaceship
- フォトシンセシス - Photosynthesis
- キュー - Queue
- トゥー・ファイン・ラヴァーズ - Two Fine Lovers
- パート・ワン・オブ・ザ・カウボーイ・トリロジー - Part One of the Cowboy Trilogy
- ウェイステッド - Wasted
- ブリーズ - Breeze
- ショーンズ・テーマ - Sean's Theme
- インターミッション - Intermission (B)
- 5/8 - 5-8 (B)
- ハーフ・ホース,ハーフ・ミュージシャン(1999年2月10日)
- キュー(ラジオ・ミックス) - Queue (Radio Mix)
- スペースシップ(ラジオ・ミックス) - Spaceship (Radio Mix)
- ドリーム - Dream
- ハート&ラング(テキサス・モーテル・ヴァージョン) - Heart & Lun (Texas Motel Version)
- 5/8 - 5-8
- ピラミッド - Pyramid
- ハピネス(オン・ザ・バス・ヴァージョン) - Happiness (On the Bus Version)
- イントゥ・ザ・サン(ムーグ・リミックス) - Into the Sun (Moog Remix)
- フレンドリー・ファイア - Friendly Fire(2006年9月29日)
- デッド・ミート - Dead Meat
- ウエイト・フォー・ミー - Wait For Me
- パラシュート - Parachute
- フレンドリー・ファイア - Friendly Fire
- スペクタクル - Spectacle
- トゥモロウ - Tomorrow
- オン・アゲイン・オフ・アゲイン - On Again Off Again
- ヘッドライツ - Headlights
- ウッド・アイ・ビー・ザ・ワン - Would I Be The One
- フォーリング・アウト・オブ・ラヴ - Falling Out Of Love
- フリーキング・アウト - Freaking Out (B)
- ローゼンクランツ・アンド・ギルデンスターン・アー・アンデッド - Rosenerantz and Guildenstern are Undead(2009年11月18日)
- Title theme
- Elsinore
- Feed
- Elsinore Reprise
- Fortenbras
- Yorick's Skull
- Charlotte's Theme
- hamlet's Theme
- Gibber And Squeak
- Elsinore Revisted
- 's Blood
- Bobby's Bedroom
- The Interview
- Finale
- Desire
コラボレーション[編集]
- Heart Grenade - ショーン レノン コーネリアス」名義(コーネリアス作曲、レノン作詞・歌唱)のコラボレーション曲。『攻殻機動隊 ARISE』第3話のエンディングテーマ[6]。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d e Erlewine, Stephen Thomas. “Sean Lennon | Biography & History”. 2020年12月17日閲覧。
- ^ ホンダ・フリード スペシャルギャラリー
- ^ ホンダ・フリード CM INFORMATION
- ^ 小山田圭吾 X 辻川幸一郎 対談
- ^ ショーン レノン×コーネリアス
- ^ 「攻殻機動隊ARISE」エンディングテーマでショーン・レノンとコーネリアスがコラボ 2014年4月23日 映画.com
外部リンク[編集]
- sean ono lennon [dot] com - for all things sean lennon
- ショーン・レノン - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
- Sean Ono Lennon (@seanonolennon) - X(旧Twitter)
- Sean Lennon (seanlennon) - Facebook
- Sean Ono Lennon (@sean_ono_lennon) - Instagram