コンテンツにスキップ

「ジョニー・ヘイズ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Degueulasse(会話 | 投稿記録)
m →‎経歴: +cat
RedBot(会話 | 投稿記録)
m r2.7.2) (ロボットによる 追加: sv:Johnny Hayes
44行目: 44行目:
[[ru:Хейз, Джон]]
[[ru:Хейз, Джон]]
[[sr:Џони Хејз]]
[[sr:Џони Хејз]]
[[sv:Johnny Hayes]]

2012年5月1日 (火) 18:34時点における版

獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
陸上競技
オリンピック
1908 ロンドン マラソン

ジョニー・ヘイズ (John Joseph "Johnny" Hayes、1886年4月10日- 1965年8月25日)は、アメリカ合衆国陸上競技選手。1908年ロンドンオリンピックの金メダリストである。

経歴

ヘイズの陸上選手としてのキャリアは、1906年ボストンマラソンからスタートした。この大会では5位という結果に終わっている。彼は翌1907年もボストンマラソンに出場。結果は3位となり前年よりも順位が向上。さらに同年ヨンカーズマラソンでは優勝。1908年になり、3年連続出場したボストンマラソンで2位に入り、同年のロンドンオリンピックのアメリカ代表に選出された。

ロンドンオリンピックのマラソンは、スタートであるウィンザー城から、メインスタジアムであるホワイトシティ・スタジアムアレクサンドラ王妃が待つ貴賓席の前をゴールするコースで距離は42.195kmであった。(その後1921年に国際陸連がこの距離を公式にマラソンの距離とするまで、マラソンの距離は約40kmとされていた。)

さて、レースは7月24日に異常なほどの暑さの中で行われた。最初にスタジアムに入ってきたのはイタリアドランド・ピエトリであった。しかし、スタジアム内でのピエトリはふらふらで、間違った方向に進もうとしたり、倒れたりしながらも医師や係員によって助け上げられたりしながら、何とかフィニッシュラインにたどり着いた。

スタジアム内を疾走するヘイズ(ロンドンオリンピック(1908年))

ドランドがもだえ苦しむ姿に観衆は声援を送る中、2番目にゴールしたヘイズに注意を払うものは誰もいなかった。アメリカの役員はドランドの優勝に異議を唱えるが、観衆はドランドの味方であった。しかし、公式結果はドランド失格、ヘイズの金メダルを決定した。しかし、ドランドは王妃から金杯を贈られ、金メダルを獲得したヘイズ以上に名声を受け取ったのである。

ロンドンオリンピックの後、皆の興味はヘイズとピエトリのどちらが強いのかという方向に向かっていった。2人はプロに転向し、同年の11月にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで2人の対戦が実現した。このレースではピエトリが勝利。翌年3月にも対戦が組まれ、再度ピエトリが勝利している。

ヘイズは、1912年のストックホルムオリンピックにはトレーナーとして参加。後に、体育の教師となった後、食品関係の職に従事した。