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'''ジェイソン・ストルテンバーグ'''('''Jason Stoltenberg''', [[1970年]][[4月4日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[ニューサウスウェールズ州]]ナラブリ出身の元男子プロ[[テニス]]選手。[[1996年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、男子シングルスのベスト4に入った選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス23位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。


== 経歴 ==
10歳から[[テニス]]を始め、[[1987年]]にプロ入り。最初はジュニア選手のトーナメントに出場し、[[1987年全豪オープンテニス|1987年全豪オープン]]の男子ジュニア部門でシングルス・ダブルス優勝、[[1987年ウィンブルドン選手権|1987年ウィンブルドン]]ジュニア男子ダブルス優勝、[[1988年全豪オープンテニス|1988年全豪オープン]]ジュニア男子ダブルス優勝を記録した。ジュニアのダブルスで優勝したパートナーは、すべて[[トッド・ウッドブリッジ]]であった。[[1988年全豪オープンテニス|1988年全豪オープン]]では、本戦でも[[ステファン・エドベリ]]との4回戦まで進出している。[[1989年]]4月に[[ジャパン・オープン・テニストーナメント|ジャパン・オープン]]で初来日し、シングルス準々決勝に進出した。[[1990年]]4月末、[[シンガポール]]大会で[[マーク・クラッツマン]]と組んで男子ツアー大会のダブルスに初優勝を果たし、この年にダブルスで年間3勝を記録する。[[1990年]]まではウッドブリッジと組んだダブルス戦出場も多かったが、やがてウッドブリッジはストルテンバーグと離れ、[[マーク・ウッドフォード]]とのコンビで「ウッディーズ」と呼ばれるようになった。[[1993年]]1月、全豪オープン前哨戦の「[[メディバンク国際テニストーナメント|NSWオープン]]」男子ダブルスで、ストルテンバーグは同じ年の[[サンドン・ストール]]と組んで優勝したが、これが彼の最後のツアー大会ダブルス優勝になった。
10歳から[[テニス]]を始め、[[1987年]]にプロ入り。最初はジュニア選手のトーナメントに出場し、[[1987年全豪オープン]]の男子ジュニア部門でシングルス・ダブルス優勝、[[1987年ウィンブルドン選手権|1987年ウィンブルドン]]ジュニア男子ダブルス優勝、[[1988年全豪オープン]]ジュニア男子ダブルス優勝を記録した。ジュニアのダブルスで優勝したパートナーは、すべて[[トッド・ウッドブリッジ]]であった。[[1988年全豪オープン]]では、本戦でも[[ステファン・エドベリ]]との4回戦まで進出している。[[1989年]]4月に[[ジャパン・オープン・テニス選手権|ジャパン・オープン]]で初来日し、シングルス準々決勝に進出した。[[1990年]]4月末、[[シンガポール]]大会で[[マーク・クラッツマン]]と組んで男子ツアー大会のダブルスに初優勝を果たし、この年にダブルスで年間3勝を記録する。[[1990年]]まではウッドブリッジと組んだダブルス戦出場も多かったが、やがてウッドブリッジはストルテンバーグと離れ、[[マーク・ウッドフォード]]とのコンビで「ウッディーズ」と呼ばれるようになった。[[1993年]]1月、全豪オープン前哨戦の「[[メディバンク国際|NSWオープン]]」男子ダブルスで、ストルテンバーグは同じ年の[[サンドン・ストール]]と組んで優勝したが、これが彼の最後のツアー大会ダブルス優勝になった。


[[1993年]]6月、ストルテンバーグは[[イギリス]]・[[マンチェスター]]大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)の決勝戦で[[ウォーリー・マスー]]を破り、シングルス初優勝を果たす。[[1996年]]の[[1996年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、ストルテンバーグは男子シングルスのベスト4進出を果たし、ここで[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]自己最高成績を出した。1996年のウィンブルドン選手権は、大会第2週に入ってから試合日程が雨で大幅に遅れ、とりわけ準々決勝・準決勝への影響が大きかった。ストルテンバーグは準々決勝で[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年]]・[[1994年ウィンブルドン選手権|1994年]]の準優勝者[[ゴラン・イワニセビッチ]]を破った後、準決勝で[[リカル・クライチェク]]に 5-7, 2-6, 1-6 のストレートで敗れた。ウィンブルドン選手権終了後、彼は[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|アトランタ五輪]]にも[[オーストラリア]]代表選手として出場し、シングルス2回戦で[[デンマーク]]代表の[[ケネス・カールセン]]に敗退した。
[[1993年]]6月、ストルテンバーグは[[イギリス]]・[[マンチェスター]]大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)の決勝戦で[[ウォーリー・マスー]]を破り、シングルス初優勝を果たす。[[1996年]]の[[1996年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、ストルテンバーグは男子シングルスのベスト4進出を果たし、ここで[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]自己最高成績を出した。1996年のウィンブルドン選手権は、大会第2週に入ってから試合日程が雨で大幅に遅れ、とりわけ準々決勝・準決勝への影響が大きかった。ストルテンバーグは準々決勝で[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年]]・[[1994年ウィンブルドン選手権|1994年]]の準優勝者[[ゴラン・イワニセビッチ]]を破った後、準決勝で[[リカル・クライチェク]]に 5-7, 2-6, 1-6 のストレートで敗れた。ウィンブルドン選手権終了後、彼は[[1996年アトランタオリンピックテニス競技|アトランタ五輪]]にも[[オーストラリア]]代表選手として出場し、シングルス2回戦で[[デンマーク]]代表の[[ケネス・カールセン]]に敗退した。


[[1997年]]5月のコーラルスプリングス大会([[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]]開催)2連覇を最後に、ストルテンバーグは男子ツアーの優勝から見放され、それ以後は5度の準優勝で止まった。[[1998年]]のシーズンは、前半に3大会で準優勝した後、それまで好成績のなかった[[1998年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で自己最高の4回戦進出を記録している。彼は男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[オーストラリア]]代表選手としても、[[1989年]]・[[1993年]]・[[1996年]]・[[1998年]]の4度出場した。デ杯通算成績は9勝5敗で、起用された試合はすべてシングルスであった。[[2001年]]6月、[[2001年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]2回戦で[[フン・カルロス・フェレーロ]]に 6-7, 6-4, 3-6, 7-6, 3-6 で敗れた試合を最後に、ジェイソン・ストルテンバーグは31歳で現役を退いた。
[[1997年]]5月の[[コーラルスプリングス (フロリダ州)|コーラルスプリングス]]大会([[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]]開催)2連覇を最後に、ストルテンバーグは男子ツアーの優勝から見放され、それ以後は5度の準優勝で止まった。[[1998年]]のシーズンは、前半に3大会で準優勝した後、それまで好成績のなかった[[1998年全仏オープン|全仏オープン]]で自己最高の4回戦進出を記録している。彼は男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[オーストラリア]]代表選手としても、[[1989年]]・[[1993年]]・[[1996年]]・[[1998年]]の4度出場した。デ杯通算成績は9勝5敗で、起用された試合はすべてシングルスであった。[[2001年]]6月、[[2001年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]2回戦で[[フン・カルロス・フェレーロ]]に 6-7, 6-4, 3-6, 7-6, 3-6 で敗れた試合を最後に、ジェイソン・ストルテンバーグは31歳で現役を退いた。
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{ATP}}
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* {{Davis Cup}}
* [http://www.daviscup.com/teams/player.asp?player=10001327 デビスカップ成績表]
* {{ITF}}


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[[Category:オーストラリアのテニス選手]]
[[Category:オーストラリアの男子テニス選手]]
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2021年11月9日 (火) 10:44時点における最新版

ジェイソン・ストルテンバーグ
Jason Stoltenberg
ジェイソン・ストルテンバーグ
基本情報
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 同・ナラブリ
生年月日 (1970-04-04) 1970年4月4日(54歳)
身長 185cm
体重 80kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1987年
引退年 2001年
ツアー通算 9勝
シングルス 4勝
ダブルス 5勝
生涯通算成績 424勝393敗
シングルス 303勝267敗
ダブルス 121勝126敗
生涯獲得賞金 $3,305,212
4大大会最高成績・シングルス
全豪 4回戦(1988)
全仏 4回戦(1998)
全英 ベスト4(1996)
全米 3回戦(1988・95・96)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(1991・96)
全仏 ベスト8(1990)
全英 ベスト8(1990)
全米 2回戦(1990)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 19位(1994年10月31日)
ダブルス 23位(1991年3月25日)

ジェイソン・ストルテンバーグJason Stoltenberg, 1970年4月4日 - )は、オーストラリアニューサウスウェールズ州ナラブリ出身の元男子プロテニス選手。1996年ウィンブルドンで、男子シングルスのベスト4に入った選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス23位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。

経歴[編集]

10歳からテニスを始め、1987年にプロ入り。最初はジュニア選手のトーナメントに出場し、1987年全豪オープンの男子ジュニア部門でシングルス・ダブルス優勝、1987年ウィンブルドンジュニア男子ダブルス優勝、1988年全豪オープンジュニア男子ダブルス優勝を記録した。ジュニアのダブルスで優勝したパートナーは、すべてトッド・ウッドブリッジであった。1988年全豪オープンでは、本戦でもステファン・エドベリとの4回戦まで進出している。1989年4月にジャパン・オープンで初来日し、シングルス準々決勝に進出した。1990年4月末、シンガポール大会でマーク・クラッツマンと組んで男子ツアー大会のダブルスに初優勝を果たし、この年にダブルスで年間3勝を記録する。1990年まではウッドブリッジと組んだダブルス戦出場も多かったが、やがてウッドブリッジはストルテンバーグと離れ、マーク・ウッドフォードとのコンビで「ウッディーズ」と呼ばれるようになった。1993年1月、全豪オープン前哨戦の「NSWオープン」男子ダブルスで、ストルテンバーグは同じ年のサンドン・ストールと組んで優勝したが、これが彼の最後のツアー大会ダブルス優勝になった。

1993年6月、ストルテンバーグはイギリスマンチェスター大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)の決勝戦でウォーリー・マスーを破り、シングルス初優勝を果たす。1996年ウィンブルドンで、ストルテンバーグは男子シングルスのベスト4進出を果たし、ここで4大大会自己最高成績を出した。1996年のウィンブルドン選手権は、大会第2週に入ってから試合日程が雨で大幅に遅れ、とりわけ準々決勝・準決勝への影響が大きかった。ストルテンバーグは準々決勝で1992年1994年の準優勝者ゴラン・イワニセビッチを破った後、準決勝でリカルト・クライチェクに 5-7, 2-6, 1-6 のストレートで敗れた。ウィンブルドン選手権終了後、彼はアトランタ五輪にもオーストラリア代表選手として出場し、シングルス2回戦でデンマーク代表のケネス・カールセンに敗退した。

1997年5月のコーラルスプリングス大会(アメリカフロリダ州開催)2連覇を最後に、ストルテンバーグは男子ツアーの優勝から見放され、それ以後は5度の準優勝で止まった。1998年のシーズンは、前半に3大会で準優勝した後、それまで好成績のなかった全仏オープンで自己最高の4回戦進出を記録している。彼は男子テニス国別対抗戦・デビスカップオーストラリア代表選手としても、1989年1993年1996年1998年の4度出場した。デ杯通算成績は9勝5敗で、起用された試合はすべてシングルスであった。2001年6月、ウィンブルドン2回戦でフアン・カルロス・フェレーロに 6-7, 6-4, 3-6, 7-6, 3-6 で敗れた試合を最後に、ジェイソン・ストルテンバーグは31歳で現役を退いた。

外部リンク[編集]