「ジェイソン・ストルテンバーグ」の版間の差分
ダブルス用インフォボックス |
タグ: 巻き戻し |
||
(14人の利用者による、間の18版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{テニス選手 |
{{テニス選手 |
||
|選手名(日本語)=ジェイソン・ストルテンバーグ |
|選手名(日本語)=ジェイソン・ストルテンバーグ |
||
|写真=Roland Garros 20140531 Jason Stoltenberg.jpg |
|||
|写真= |
|||
|写真サイズ= |
|写真サイズ= |
||
|写真のコメント= |
|写真のコメント=ジェイソン・ストルテンバーグ |
||
|選手名(英語)=Jason Stoltenberg |
|選手名(英語)=Jason Stoltenberg |
||
|フルネーム(英語名)= |
|フルネーム(英語名)= |
||
24行目: | 24行目: | ||
|シングルス通算=303勝267敗 |
|シングルス通算=303勝267敗 |
||
|ダブルス通算=121勝126敗 |
|ダブルス通算=121勝126敗 |
||
|生涯獲得賞金=$3,305,212 |
|||
|全豪オープン=4回戦(1988) |
|全豪オープン=4回戦(1988) |
||
|全仏オープン=4回戦(1998) |
|全仏オープン=4回戦(1998) |
||
34行目: | 35行目: | ||
|全米オープンダブルス=2回戦(1990) |
|全米オープンダブルス=2回戦(1990) |
||
|ダブルス優勝回数= |
|ダブルス優勝回数= |
||
|シングルス最高=19位 |
|シングルス最高=19位(1994年10月31日) |
||
|ダブルス最高=23位 |
|ダブルス最高=23位(1991年3月25日) |
||
}} |
}} |
||
'''ジェイソン・ストルテンバーグ'''('''Jason Stoltenberg''', [[1970年]][[4月4日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[ニューサウスウェールズ州]]ナラブリ出身の元男子プロ[[テニス]]選手。[[1996年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、男子シングルスのベスト4に入った選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス23位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 |
'''ジェイソン・ストルテンバーグ'''('''Jason Stoltenberg''', [[1970年]][[4月4日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[ニューサウスウェールズ州]]ナラブリ出身の元男子プロ[[テニス]]選手。[[1996年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、男子シングルスのベスト4に入った選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス23位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 |
||
== 経歴 == |
|||
10歳から[[テニス]]を始め、[[1987年]]にプロ入り。最初はジュニア選手のトーナメントに出場し、[[ |
10歳から[[テニス]]を始め、[[1987年]]にプロ入り。最初はジュニア選手のトーナメントに出場し、[[1987年全豪オープン]]の男子ジュニア部門でシングルス・ダブルス優勝、[[1987年ウィンブルドン選手権|1987年ウィンブルドン]]ジュニア男子ダブルス優勝、[[1988年全豪オープン]]ジュニア男子ダブルス優勝を記録した。ジュニアのダブルスで優勝したパートナーは、すべて[[トッド・ウッドブリッジ]]であった。[[1988年全豪オープン]]では、本戦でも[[ステファン・エドベリ]]との4回戦まで進出している。[[1989年]]4月に[[ジャパン・オープン・テニス選手権|ジャパン・オープン]]で初来日し、シングルス準々決勝に進出した。[[1990年]]4月末、[[シンガポール]]大会で[[マーク・クラッツマン]]と組んで男子ツアー大会のダブルスに初優勝を果たし、この年にダブルスで年間3勝を記録する。[[1990年]]まではウッドブリッジと組んだダブルス戦出場も多かったが、やがてウッドブリッジはストルテンバーグと離れ、[[マーク・ウッドフォード]]とのコンビで「ウッディーズ」と呼ばれるようになった。[[1993年]]1月、全豪オープン前哨戦の「[[メディバンク国際|NSWオープン]]」男子ダブルスで、ストルテンバーグは同じ年の[[サンドン・ストール]]と組んで優勝したが、これが彼の最後のツアー大会ダブルス優勝になった。 |
||
[[1993年]]6月、ストルテンバーグは[[イギリス]]・[[マンチェスター]]大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)の決勝戦で[[ウォーリー・マスー]]を破り、シングルス初優勝を果たす。[[1996年]]の[[1996年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、ストルテンバーグは男子シングルスのベスト4進出を果たし、ここで[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]自己最高成績を出した。1996年のウィンブルドン選手権は、大会第2週に入ってから試合日程が雨で大幅に遅れ、とりわけ準々決勝・準決勝への影響が大きかった。ストルテンバーグは準々決勝で[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年]]・[[1994年ウィンブルドン選手権|1994年]]の準優勝者[[ゴラン・イワニセビッチ]]を破った後、準決勝で[[リカル |
[[1993年]]6月、ストルテンバーグは[[イギリス]]・[[マンチェスター]]大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)の決勝戦で[[ウォーリー・マスー]]を破り、シングルス初優勝を果たす。[[1996年]]の[[1996年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で、ストルテンバーグは男子シングルスのベスト4進出を果たし、ここで[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]自己最高成績を出した。1996年のウィンブルドン選手権は、大会第2週に入ってから試合日程が雨で大幅に遅れ、とりわけ準々決勝・準決勝への影響が大きかった。ストルテンバーグは準々決勝で[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年]]・[[1994年ウィンブルドン選手権|1994年]]の準優勝者[[ゴラン・イワニセビッチ]]を破った後、準決勝で[[リカルト・クライチェク]]に 5-7, 2-6, 1-6 のストレートで敗れた。ウィンブルドン選手権終了後、彼は[[1996年アトランタオリンピックのテニス競技|アトランタ五輪]]にも[[オーストラリア]]代表選手として出場し、シングルス2回戦で[[デンマーク]]代表の[[ケネス・カールセン]]に敗退した。 |
||
[[1997年]]5月のコーラルスプリングス大会([[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]]開催)2連覇を最後に、ストルテンバーグは男子ツアーの優勝から見放され、それ以後は5度の準優勝で止まった。[[1998年]]のシーズンは、前半に3大会で準優勝した後、それまで好成績のなかった[[1998年全仏オープン |
[[1997年]]5月の[[コーラルスプリングス (フロリダ州)|コーラルスプリングス]]大会([[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[フロリダ州]]開催)2連覇を最後に、ストルテンバーグは男子ツアーの優勝から見放され、それ以後は5度の準優勝で止まった。[[1998年]]のシーズンは、前半に3大会で準優勝した後、それまで好成績のなかった[[1998年全仏オープン|全仏オープン]]で自己最高の4回戦進出を記録している。彼は男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[オーストラリア]]代表選手としても、[[1989年]]・[[1993年]]・[[1996年]]・[[1998年]]の4度出場した。デ杯通算成績は9勝5敗で、起用された試合はすべてシングルスであった。[[2001年]]6月、[[2001年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]2回戦で[[フアン・カルロス・フェレーロ]]に 6-7, 6-4, 3-6, 7-6, 3-6 で敗れた試合を最後に、ジェイソン・ストルテンバーグは31歳で現役を退いた。 |
||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* {{ATP}} |
|||
* {{ATP|id=S331|name=ジェイソン・ストルテンバーグ}} |
|||
* {{Davis Cup}} |
|||
* [http://www.daviscup.com/teams/player.asp?player=10001327 デビスカップ成績表] |
|||
* {{ITF}} |
|||
{{DEFAULTSORT:すとるてんはあく しえいそん}} |
{{DEFAULTSORT:すとるてんはあく しえいそん}} |
||
[[Category:オーストラリアのテニス選手]] |
[[Category:オーストラリアの男子テニス選手]] |
||
[[Category:オーストラリア |
[[Category:オリンピックテニスオーストラリア代表選手]] |
||
[[Category:1996年アトランタオリンピックテニス出場選手]] |
|||
[[Category:ニューサウスウェールズ州の人物]] |
|||
[[Category:1970年生]] |
[[Category:1970年生]] |
||
[[Category:存命人物]] |
|||
[[en:Jason Stoltenberg]] |
|||
[[es:Jason Stoltenberg]] |
|||
[[fr:Jason Stoltenberg]] |
|||
[[pl:Jason Stoltenberg]] |
|||
[[sk:Jason Stoltenberg]] |
2021年11月9日 (火) 10:44時点における最新版
| ||||
---|---|---|---|---|
ジェイソン・ストルテンバーグ | ||||
基本情報 | ||||
国籍 | オーストラリア | |||
出身地 | 同・ナラブリ | |||
生年月日 | 1970年4月4日(54歳) | |||
身長 | 185cm | |||
体重 | 80kg | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1987年 | |||
引退年 | 2001年 | |||
ツアー通算 | 9勝 | |||
シングルス | 4勝 | |||
ダブルス | 5勝 | |||
生涯通算成績 | 424勝393敗 | |||
シングルス | 303勝267敗 | |||
ダブルス | 121勝126敗 | |||
生涯獲得賞金 | $3,305,212 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 4回戦(1988) | |||
全仏 | 4回戦(1998) | |||
全英 | ベスト4(1996) | |||
全米 | 3回戦(1988・95・96) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | ベスト8(1991・96) | |||
全仏 | ベスト8(1990) | |||
全英 | ベスト8(1990) | |||
全米 | 2回戦(1990) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 19位(1994年10月31日) | |||
ダブルス | 23位(1991年3月25日) | |||
ジェイソン・ストルテンバーグ(Jason Stoltenberg, 1970年4月4日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ナラブリ出身の元男子プロテニス選手。1996年のウィンブルドンで、男子シングルスのベスト4に入った選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス23位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。
経歴[編集]
10歳からテニスを始め、1987年にプロ入り。最初はジュニア選手のトーナメントに出場し、1987年全豪オープンの男子ジュニア部門でシングルス・ダブルス優勝、1987年ウィンブルドンジュニア男子ダブルス優勝、1988年全豪オープンジュニア男子ダブルス優勝を記録した。ジュニアのダブルスで優勝したパートナーは、すべてトッド・ウッドブリッジであった。1988年全豪オープンでは、本戦でもステファン・エドベリとの4回戦まで進出している。1989年4月にジャパン・オープンで初来日し、シングルス準々決勝に進出した。1990年4月末、シンガポール大会でマーク・クラッツマンと組んで男子ツアー大会のダブルスに初優勝を果たし、この年にダブルスで年間3勝を記録する。1990年まではウッドブリッジと組んだダブルス戦出場も多かったが、やがてウッドブリッジはストルテンバーグと離れ、マーク・ウッドフォードとのコンビで「ウッディーズ」と呼ばれるようになった。1993年1月、全豪オープン前哨戦の「NSWオープン」男子ダブルスで、ストルテンバーグは同じ年のサンドン・ストールと組んで優勝したが、これが彼の最後のツアー大会ダブルス優勝になった。
1993年6月、ストルテンバーグはイギリス・マンチェスター大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)の決勝戦でウォーリー・マスーを破り、シングルス初優勝を果たす。1996年のウィンブルドンで、ストルテンバーグは男子シングルスのベスト4進出を果たし、ここで4大大会自己最高成績を出した。1996年のウィンブルドン選手権は、大会第2週に入ってから試合日程が雨で大幅に遅れ、とりわけ準々決勝・準決勝への影響が大きかった。ストルテンバーグは準々決勝で1992年・1994年の準優勝者ゴラン・イワニセビッチを破った後、準決勝でリカルト・クライチェクに 5-7, 2-6, 1-6 のストレートで敗れた。ウィンブルドン選手権終了後、彼はアトランタ五輪にもオーストラリア代表選手として出場し、シングルス2回戦でデンマーク代表のケネス・カールセンに敗退した。
1997年5月のコーラルスプリングス大会(アメリカ・フロリダ州開催)2連覇を最後に、ストルテンバーグは男子ツアーの優勝から見放され、それ以後は5度の準優勝で止まった。1998年のシーズンは、前半に3大会で準優勝した後、それまで好成績のなかった全仏オープンで自己最高の4回戦進出を記録している。彼は男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオーストラリア代表選手としても、1989年・1993年・1996年・1998年の4度出場した。デ杯通算成績は9勝5敗で、起用された試合はすべてシングルスであった。2001年6月、ウィンブルドン2回戦でフアン・カルロス・フェレーロに 6-7, 6-4, 3-6, 7-6, 3-6 で敗れた試合を最後に、ジェイソン・ストルテンバーグは31歳で現役を退いた。
外部リンク[編集]
- ジェイソン・ストルテンバーグ - ATPツアーのプロフィール
- ジェイソン・ストルテンバーグ - デビスカップのプロフィール
- ジェイソン・ストルテンバーグ - 国際テニス連盟