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2009年10月28日 (水) 00:05時点における版

FCバルセロナ
原語表記 Fútbol Club Barcelona
愛称 Barça、Azulgrana、Blaugrana、Culers
クラブカラー 青とえんじ
創設年 1899年
所属リーグ リーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン バルセロナ
ホームスタジアム カンプ・ノウ
収容人数 98,787
代表者 スペインの旗ジョアン・ラポルタ
監督 スペインの旗ジョゼップ・グアルディオラ
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

FCバルセロナFutbol Club Barcelona)は、スペインバルセロナを本拠地とするサッカークラブチーム[1]である。

概要

欧州CL 2005-06優勝パレード
カンプ・ノウ

FCバルセロナは1899年に創設されたカンプ・ノウをホームスタジアムとし、リーガ・エスパニョーラに所属するサッカークラブである。愛称は「バルサ(Barça)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラーナ(Blau Grana えんじと青)」と呼ばれる。数々のタイトルを獲得したヨーロッパでも屈指のビッグクラブ、名門クラブであり、リーガ創立以来2部以下に落ちたことがない。これは他にレアル・マドリードアスレティック・ビルバオのみである。

クラブ以上の存在(Més Que Un Club)」がクラブのスローガンであり、ユニフォームの後襟にもこの言葉がプリントされている。また、「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしても内容が伴わなければサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はリーガ全体に存在するが、FCバルセロナは特にこの傾向が顕著であり、結果よりも内容の価値が遥かに大きい点でこのクラブは“特異”な存在であるとも言える。

運営上の特徴

クラブ運営上の特徴として一般市民などからの会員を募り、その会費でチームを運営している点が挙げられる。これをソシオといい、ソシオの会員は現在世界中で14万に達している。なお、日本でも、2004年6月より会員の募集が行われている。

また、「カンテラ」と呼ばれる下部組織が非常に発達しており、現チームだけでもビクトール・バルデスカルレス・プジョルシャビ・エルナンデスアンドレス・イニエスタリオネル・メッシなどが輩出されており、また、現監督のジョセップ・グアルディオラを筆頭にこれまでも幾多の名選手を輩出してきた。このカンテラ出身選手は生え抜きとしてサポーターから特に絶大な声援を受けることが多い。

他チームとの関係

サッカーのみならず政治的・地域的に長年の対立関係にある首都マドリードのレアル・マドリードとは長年のライバルである。

このレアル・マドリードとの試合はエル・クラシコ(El Clásico)と呼ばれ、100年近く因縁の対決を続けており、スペイン国内だけでなく世界的にも注目度の高いイベントである。また、同じバルセロナを本拠地とするエスパニョールとの試合は、バルセロナダービーと呼ばれ、これもリーガ屈指の注目度を誇る対戦である。

ホセ・サミティエールの移籍に始まるレアル・マドリードへの移籍は「裏切り」と呼ばれることも多い。こうした移籍は後にベルント・シュスターミカエル・ラウドルップルイス・フィーゴハビエル・サビオラなどの選手が続いている。特にフィーゴの移籍後にカンプ・ノウで行われたエル・クラシコにおいてビンなどが投げ込まれ、10分間試合が中断するなど、大きな騒動となった。一方でサビオラの移籍についてはチームで戦力外の扱いだったため、それほど反発は起こらず、彼の境遇に同情する声も少なくなかった。

逆にレアル・マドリードからFCバルセロナへの移籍もルイス・エンリケなどが行っているが、この時は逆にレアル・マドリードのファンから裏切り者扱いされている。他にもレアル・マドリードからRCDマジョルカへのレンタル移籍を経てFCバルセロナに移籍したサミュエル・エトオはFCバルセロナの優勝セレモニーの際、「くそったれマドリーは王者に頭を下げろ」と発言して問題になるなど、両チームの間での移籍は騒動を呼ぶことも多い。

また、第三者のクラブ選手の移籍においても競合することが多く、アルフレッド・ディ・ステファノヨハン・クライフデビッド・ベッカムダニエウ・アウヴェスらを巡って争奪戦を繰り広げている。

このレアル・マドリードとの対立関係から同じくレアル・マドリードをライバルとするアトレティコ・マドリードとの関係は良好であるが、対戦成績が奮わない相手であり、リーガ優勝を果たした2005-06シーズンにおいても2006年2月6日にホームスタジアムカンプ・ノウでの無敗記録、リーガ連勝記録を14で止められている。

エクアドルのサッカークラブ、バルセロナSCはバルセロナからの移民がエクアドルのグアヤキルで設立したもので、クラブ間の資本関係などはない。ただ、エンブレムは非常に似ており、FCバルセロナも親善試合を行ったことがある。

歴史

創立期

創始者のジョアン・ガンペール

1899年スイス人実業家ハンス・カンパー(ジョアン・ガンペール)ら11名により創立された。この時、上記の「えんじと青」のチームカラーが決められたが、このチームカラーとなったのは、カンパーの縁深かったFCバーゼルのチームカラーに由来すると一般的には信じられている[2]。なお、初代会長はイギリス人のウォルター・ワイルドであるが、初期のチーム関係者にはスイス人も多かった。

1929年から続くリーガ・エスパニョーラの初代王者である。

レアル・マドリードとの対戦はエル・クラシコと呼ばれ、1902年の第1回コパ・デルレイ(スペイン国王杯)から因縁の対決(3-1でバルセロナの勝利)を続けている。その背景には、プリモ・デ・リベラ将軍による独裁政権時代(1923年-1930年)とフランコ独裁政権時代(1939年-1975年)のカタルーニャ弾圧がある。当時、カタルーニャの人々は自分たちの言葉・カタルーニャ語を話す事が許されずスタジアムの中でだけそれが許された。これによりスペインサッカー界の軸は、バルセロナとアスレティック・ビルバオからレアル・マドリードへと移った。

ホセ・ルイス・ヌニェス会長時代

ファイル:UEFA Champions Cup.jpg
1992年にUEFAチャンピオンズリーグで初優勝した時のトロフィー

1978年、初めてソシオ会員よる選挙を実施し、ホセ・ルイス・ヌニェスが会長に選出された。

ヌニェスは経営基盤を安定させる事に務め、カンプ・ノウの改築による観客収容数の増加、有名選手の獲得によってクラブの収益を上げ、ソシオ会員数を大幅に増加させた。また、自ら公約に掲げた「若手育成の充実」を計るため、ラ・マシアと呼ばれる寮を開設し、カンテラに優秀な若者を集めるようになる。この時期のソシオ会員数の増加やカンテラの充実は現在のクラブ組織の基礎となっている。

1988年4月、ヌニェスと選手と対立、5月にヨハン・クライフを監督に迎え建て直しを図ったが、シーズン終了後に選手が大量退団、残留した選手は9人という異常事態に発展する。このため1987-1988、1988-1989、1989-1990シーズンの成績は期待を大きく裏切るものであった。1989-1990シーズン終了後、ソシオはクライフの解任を要求したが、クラブ側はクライフの続投を選択した。これは、ヌチェスと選手の対立を埋めるには、クラブのOBであるクライフ監督が最適であったと考えられていたことによる。

1990年代前半に入り、続投したクライフ監督のもと、チームはリーガ4連覇とUEFAチャンピオンズリーグ初制覇を果たし、エル・ドリーム・チームと呼ばれることになる。

1996-1997シーズンは、ボビー・ロブソンを監督に招聘し、ロブソン監督の通訳として、モウリーニョを起用している。このシーズンはロナウドが得点王に輝いた。

1997-1998シーズンに、アヤックス・アムステルダムで実績を残したルイス・ファン・ハールを監督に迎える。このシーズンはリーガと国王杯の2冠を達成し、翌1998-1999シーズンも圧倒的な強さでリーグ優勝を果たした。

一方で、ファン・ハール監督はオランダ出身選手を重用し、地元カタルーニャ出身者を冷遇し続け、特にクライフ監督時代に活躍した選手を放出していった結果、「バルサ版アヤックス」と呼べるような布陣となった。この結果、1999-2000シーズンのUEFAチャンピオンズ・リーグ予選リーグ敗退、さらには国王杯ボイコット事件などはソシオの反発を招き、2000年にヌニェスは会長を辞任し、シーズン終了後にファン・ハール監督はクラブを去っていった。

ジョアン・ガスパール会長時代

2000-2001シーズンはファン・ハールにかわりロレンソ・セラ・フェレールが監督に就任したが、成績不振からシーズン途中に辞任しカルロス・レシャックがチームを受け継ぐも4位に終わった。2001-2002シーズンもレシャックが引き続き指揮を執ったがやはり、4位に終わっている。

2002-2003シーズンにファン・ハールが監督に復帰したものの、ファン・ハール自身のオランダ代表監督としての成績によるマイナスイメージに加えて、リバウドの退団、クライファートらオランダ出身選手の高齢化もチームにとっては負担となった。結果、成績を残せずシーズン途中でファン・ハールは辞任、チームも15年ぶりの6位となった。

ジョアン・ラポルタ会長時代

バルセロナの選手達(2008年)

2003-2004シーズンにフランク・ライカールトが監督に就任した。ライカールトの経験不足、急造チームという特性上の問題、シーズン当初には苦戦を余儀なくされたが、このシーズンよりチームに加入したロナウジーニョの活躍や、2003年冬にエドガー・ダービッツが加入したことにより、最終節で2位を確保した。

2004年夏の移籍市場ではサミュエル・エトオヘンリク・ラーションデコらを獲得する一方、パトリック・クライファートら多くのオランダ人選手、またこれまでの主力であったハビエル・サビオラASモナコへレンタル移籍)などを放出してメンバーを大きく刷新し、ロナウジーニョを中心としたチームに変貌。2004-2005シーズンは圧倒的な強さでリーグ優勝した。2005-2006シーズンもこの強さは続き、リーグ連覇とクラブ史上2度目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を達成する。

2006年7月21日、「ラポルタは任期切れである」との反対派陣営からの訴えをバルセロナ地裁が認めたため、この判決を受けてラポルタは26日に会長職を辞任、新たに会長選挙が行われる事となった。しかし、サッカー部門の成績やクラブ財政再建も上々で仕事ぶりに異を唱える声は少なく、結局他の立候補者がなかったため自動的に再任された。

2006年夏の移籍市場ではカルチョ・スキャンダルによってセリエBに降格したユヴェントスからジャンルカ・ザンブロッタリリアン・テュラムを、また退団したラーションの後釜としてチェルシーFCからエイドゥル・グジョンセンを獲得し、レンタル移籍を繰り返していたハビエル・サビオラを復帰させるなど積極的な補強を行った。2006-2007シーズンは3連覇は堅いと予想されたが、開幕前のUEFAスーパーカップではセビージャFCに大敗。リーグではサミュエル・エトオリオネル・メッシが負傷により長期欠場しながらも優勝戦線に留まっていたが、最終的にレアル・マドリードと同勝点ながら直接対決の結果で敗れリーグ優勝を逃し、3季振りの無冠に終わった。2007年夏の移籍市場ではアーセナルFCから前年獲得に失敗したティエリ・アンリの他、ガブリエル・ミリートヤヤ・トゥーレらを獲得。ロナウジーニョ、エトオ、メッシとアンリによる“ファンタスティック4”の活躍に期待が集まったものの、エトオは負傷により長期離脱し、アンリは自身初のスペインリーグに馴染むことが出来ず、またロナウジーニョは不調や数々の問題行動を起こしてチームの輪を乱す存在となった。2007-2008シーズンも無冠に終わり、この2年間の不振の責任を負う形でライカールトは監督を退任した。

この2006-2007シーズン及び2007-2008シーズンの不振の責い任を問い2008年5月、ソシオの1人である弁護士オリオル・ジラルト氏が中心なってラポルタ役員会に対する不信任案が提出された。不信任投票実施には総ソシオの5%、約5,900名の署名が必要であったが、最終的に約9,000人もの署名が集まり、7月6日に不信任投票が実施された。開票の結果は不信任票60.8%。過半数が不信任という結果となったものの解任の為の規定数(全投票数の3分の2)にはわずかに足りず、ラポルタ会長の続投となった。

ライカールトの退任後、FCバルセロナB監督を務めていたジョゼップ・グアルディオラが監督に就任。2008年夏の移籍市場ではセビージャFCからダニエウ・アウヴェスセイドゥ・ケイタを、またマンチェスター・ユナイテッドFCからかつてのカンテラ出身選手であったジェラール・ピケを獲得する一方、ロナウジーニョとジャンルカ・ザンブロッタACミランへ、デコチェルシーFCへと放出するなど主力の整理も行い、リオネル・メッシアンドレス・イニエスタらを中心としたチームへと再編成した。2008-2009シーズンはリーガ・エスパニョーラコパ・デル・レイUEFAチャンピオンズリーグのすべてを制覇し、スペイン勢史上初の3冠の偉業を達成した。

2009年夏の移籍市場ではインテルからズラタン・イブラヒモビッチサミュエル・エトオ+移籍金4600万ユーロとのトレード)とマクスウェルを、シャフタール・ドネツクからドミトロ・チグリンスキーを獲得するなど積極的に補強を行い、シーズン開幕前にはスーペルコパ・デ・エスパーニャUEFAスーパーカップを制覇した。

下部組織

概要

FCバルセロナも他のスペイン国内クラブ同様、カンテラと呼ばれるユースチームを所有している。世界各国から優秀な若者を集め、ジョゼップ・グアルディオラリオネル・メッシなどをトップチームに送り出している。

現在でこそ、名プレーヤーを輩出することで知られているが、そのきっかけとなる出来事は1979年にまでさかのぼる。当時のホセ・ルイス・ヌニェス会長が自ら公約に掲げた「若手育成の充実」を計るため、ラ・マシアと呼ばれる寮を開設し、スペイン全土から優秀な若者を集めるようになる。ラ・マシア開設から数年間、目立った成果はあげられなかったが、1988年ヨハン・クライフ監督が就任する頃には、ギジェルモ・アモール、グアルディオラ、セルジ・バルファンら若手がトップチームに定着するようになる。“クライフの子供たち”と呼ばれた彼らは、リーガ4連覇を果たしエル・ドリーム・チームと呼ばれたFCバルセロナの一員として活躍した。

近年ではシャビアンドレス・イニエスタセスク・ファブレガスといったスペイン代表の中軸を担うピボーテを中心に、“リトルブッダ”の愛称で親しまれたイバン・デ・ラ・ペーニャ、現在のトップチームでキャプテンを務めるカルレス・プジョル、リーガ新人最多得点記録のボージャン・クルキッチらを育成している。

スペインでは法律により18歳になるまではプロ契約ができないため、近年では育成した選手がトップチームに昇格する直前にプレミアリーグのクラブに引き抜かれる事件がしばしば起きている。アーセナルFCにはセスクとフラン・メリダリヴァプールFCにはパチェコマンチェスター・ユナイテッドFCにはジェラール・ピケが引き抜かれている。

しかしバルセロナ自身、当時12歳だったアルゼンチンリバープレートエリック・ラメラを家族ごとスペインにつれてこようとし、アルゼンチン国内で批判を巻き起こすなど、とくに南米で類似の問題を引き起こしている。とはいえ、若年の原石をスカウトして育てようとする点とトップデビューまで育てられた選手を引き抜こうとしている点、例え選手として大成しなくともその後の生活についてしっかりと面倒を見る点で異なっている。

組織形態

ユースチームは能力や年齢によって、以下の11チームに分けられている。

名称 対象年齢 責任者
バルサ・アトレティック[3] 全年齢 ルイス・エンリケ
フベニルA 17歳〜20歳 ガルシア・ピミエンタ
フベニルB 17歳〜18歳 セルジ・バルフアン
カデッテA 15歳〜16歳 ビクトル・サンチェス
カデッテB
インファンティルA 13歳〜14歳
インファンティルB
アレビンA 12歳
アレビンB 11歳
ベンジャミンA 10歳
ベンジャミンB 9歳〜10歳

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 青とえんじ
FP(2nd) 黄色 紺色 黄色
GK(1st)
GK(2nd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
  • 一般に多くのサッカークラブではユニフォームにスポンサーのロゴを入れているが、FCバルセロナはソシオにより運営していることから、スポンサーのロゴを入れないことがクラブの伝統となっている。
  • 上記のような伝統があるが、2006年に児童福祉活動への支援という観点から、ユニセフと毎年190万ドルの寄付、総額950万ドル寄付の5年契約で合意した。これにより、2006年9月12日から史上初めて胸にロゴを入れたユニフォームを着用している。なお、ロゴ本来の色は白であるが、白は宿敵であるレアル・マドリードのチームカラーでもあるため、ホームは黄色、アウェイは水色のロゴになった。
  • 1999-2000シーズン後半は、クラブ創立100周年ユニフォームが使用された。現在、ファーストユニフォームはこのユニフォームをベースとしたデザインとなっている。
  • 2005-06シーズンのファーストユニフォームのパンツはえんじ色だった。
  • 2ndユニフォームの配色は毎年異なる。2007-08シーズンはシャツ、パンツ共に水色、2006-07シーズンはシャツ、パンツ共にオレンジ色だった。
  • 例年、前年の2ndユニフォームはサードユニフォームとして使用される。
  • バスケットボールなど、サッカー以外のチームでも青色とえんじ色の縦ストライプのユニフォームを用いている。こちらはフットボール部門とは違い、商業的な胸スポンサーロゴ契約が結ばれている。

メンバーとフォーメーション[4]

現所属メンバー[5][6]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK スペイン ビクトール・バルデス (/第3キャプテン)
2 DF ブラジル ダニエウ・アウヴェス ()
3 DF スペイン ジェラール・ピケ ()
4 DF メキシコ ラファエル・マルケス ()
5 DF スペイン カルレス・プジョル (/キャプテン)
6 MF スペイン シャビ (/副キャプテン)
8 MF スペイン アンドレス・イニエスタ (第4キャプテン)
9 FW スウェーデン ズラタン・イブラヒモビッチ
10 FW アルゼンチン リオネル・メッシ ()
11 FW スペイン ボージャン・クルキッチ ()
13 GK スペイン ホセ・マヌエル・ピント
14 FW フランス ティエリ・アンリ
15 MF マリ共和国 セイドゥ・ケイタ ()
No. Pos. 選手名
16 MF スペイン セルジ・ブスケ ()
17 FW スペイン ペドロ
18 DF アルゼンチン ガブリエル・ミリート ()
19 DF ブラジル マクスウェル ()
21 DF ウクライナ ドミトロ・チグリンスキー
22 DF フランス エリック・アビダル
24 MF コートジボワール トゥーレ・ヤヤ ()
28 MF メキシコ ジョナタン・ドス・サントス () ※
32 DF スペイン アンドレウ・フォンタス
33 DF スペイン マルク・ムニエッサ
35 FW スペイン ジェフレン・スアレス

※現カンテラ所属選手

EU外選手枠(3人まで)
監督 & 助監督

レンタル移籍中の選手

out

フォーメーション

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フォーメーションの特徴として、まず両サイドバックがかなりの頻度で攻撃参加する。今シーズンは右サイドバックのD.アウヴェスが常に前線に顔を出している。また、バックラインは中盤をコンパクトにするため、他チームにくらべ断然高い。そのため、ディフェンスとゴールキーパーの間の膨大なスペースを埋めるため、V.バルデスには攻撃時はボール回しへの参加、守備時には素早い飛び出しが求められる。

中盤はトゥーレがバランサーで、シャビイニエスタらがパサー、前線への飛び出しなどを担っている。

フォワードの三人は自由度が高く、ポジションチェンジが多い。右サイドに左利きのメッシ、左に右利きのアンリを置いているのは、この二人が純粋なウイングではなく、ドリブル、ワンツーなどで中に切り込んでシュートという形が多いためである。そして、今季から加入したイブラヒモビッチのポストプレーで攻撃のパターンは増加した。攻撃は全員参加の速いパス回し、守備は全員で素早いプレスというのがチーム全体の基本的な戦術である。

09/10移籍

クラブ成績

クラブ成績・主要タイトル

シーズン 国内 UEFA 監督 会長
順位 試合 カップ CL カップ[7]
1899-1900 リーグ存在せず 存在せず 存在せず 不明 ウォルター・ワイルド
1900-1901
1901-1902 準優勝 バルトミュー・テラデス
1902-1903 ポール・ハース
1903-1904 アルサー・ウィティー
1904-1905
1905-1906 ジョセップ・ソラー
1906-1907 ジュリ・マリアル
1907-1908
1908-1909 ヴィセン・レイグ
ハンス・カンパー
1909-1910 優勝[8] ハンス・カンパー
1910-1911 オット・グメリン
1911-1912 優勝 ハンス・カンパー
1912-1913 優勝[8]
1913-1914 フランシス・デ・モホ
1914-1915 フランシス・デ・モホ
アルバー・プレスタ
ホアキン・ペリス・デ・バーガス
1915-1916 ラファエル・ロパート
1916-1917 ジョン・バロー ガスパー・ロセス
1917-1918 ジャック・グリーンウェル ハンス・カンパー
1918-1919 準優勝
1919-1920 優勝 リカルド・グラエルス
1920-1921 ガスパー・ロセス
1921-1922 優勝 ハンス・カンパー
1922-1923
1923-1924 エリック・カルドナ
1924-1925 優勝 ジェスツァ・ポスゾニー ハンス・カンパー
1925-1926 優勝 ラルフ・カービー アラディー・バラガー
1926-1927 ジャック・デムビー
1927-1928 優勝 ローマ・フォルンス
1928-1929 1位 18 11 3 4
1929-1930 2位 18 11 1 6 ジェームス・ベラミー トーマス・ロセス
1930-1931 4位 18 7 7 4 ガスパー・ロセス
1931-1932 3位 18 10 4 4 準優勝 ジャック・グリーンウェル アントニ・オリバー
ジョアン・コマ
1932-1933 4位 18 7 5 6 ジョアン・コマ
1933-1934 9位 18 8 0 10 ジャック・デムビー
1934-1935 6位 22 9 6 7 フェレンツォ・プラトコ エステベ・サーラ
1935-1936 5位 22 11 2 9 準優勝 パトリック・オコーネル ジェセップ・スニョール・ガリーガ
1936-1937 開催されず 不明 不明
1937-1938
1938-1939 ジョセップ・プラナス
1939-1940 9位 22 8 3 11
1940-1941 4位 22 13 1 8 エンリケ・ピネイロ
1941-1942 12位 26 8 3 15 優勝 ラモン・グスマン
1942-1943 3位 26 14 4 8 ジョアン・ジョセップ・ノゲス ジョセフ・ヴィダル・リバス
⇒エンリケ・ピネイロ
1943-1944 6位 26 10 8 8 ジョセフ・アントニ・デ・アルベルト
ジョセフ・ヴェンドレル
1944-1945 1位 26 17 5 4 ホセ・サミティエール ジョセフ・ヴェンドレル
1945-1946 2位 26 14 7 5
1946-1947 4位 26 14 3 9 不明
1947-1948 1位 26 15 7 4 エンリケ・フェルナンデス
1948-1949 1位 26 16 5 5
1949-1950 5位 26 13 3 10 エンリケ・フェルナンデス
ラモン・ローレンス
1950-1951 4位 30 16 3 11 優勝 フェルナンド・ダウシク
1951-1952 1位 30 19 5 6 優勝
1952-1953 1位 30 19 4 7 優勝 アグスティ・モンテリ・ガロバルト
1953-1954 2位 30 16 4 10 準優勝 エンリック・マルティ
1954-1955 2位 30 17 7 6 サンドロ・プッポ
1955-1956 2位 30 22 3 5 ---- 優勝 フェレンツォ・プラトコ
1956-1957 3位 30 16 7 7 優勝 ---- ドメネク・バルマナヤ
1957-1958 3位 30 17 4 9 ---- ドメネク・バルマナヤ
エレニオ・エレーラ
1958-1959 1位 30 24 3 3 優勝 ---- 優勝 エレニオ・エレーラ
1959-1960 1位 30 22 2 6 ベスト4
1960-1961 4位 30 13 6 11 準優勝 リュビサ・ブロチッチ
エンリケ・オリサオラ
1961-1962 2位 30 18 4 8 ---- 準優勝 ルイス・ミロ エンリック・ラウデ
1962-1963 6位 30 11 9 10 優勝 ---- ラディスラオ・クバラ
ジョセップ・ゴンサルボ
1963-1964 2位 30 19 4 7 ---- セサル・ロドリゲス
1964-1965 6位 30 14 4 12 ---- セサル・ロドリゲス
ヴィセンツォ・サソ
1965-1966 3位 30 16 6 8 ---- 優勝 ロケ・オルセン
1966-1967 2位 30 20 2 8 ----
1967-1968 2位 30 15 9 6 優勝 ---- サルバドール・アルティガス
1968-1969 3位 30 13 10 7 ナルシス・デ・カレーラス
1969-1970 4位 30 13 9 8 ジョセップ・セゲール アグスティ・モンタル
1970-1971 2位 30 19 5 6 優勝 優勝 ビク・バッキンガム
1971-1972 3位 34 17 9 8 ---- リヌス・ミケルス
1972-1973 2位 34 18 10 6 初戦敗退
1973-1974 1位 34 21 8 5 準優勝 ---- 初戦敗退
1974-1975 3位 34 15 7 12 ----
1975-1976 2位 34 18 7 9 ベスト4 ヘネス・バイスバイラー
ラウレアノ・ルイス
1976-1977 2位 34 18 9 7 ベスト8 リヌス・ミケルス
1977-1978 2位 34 16 9 9 優勝 ベスト4 レイモン・カラスコ
1978-1979 5位 34 16 6 12 ---- ---- ルシアン・ミュラー ホセ・ルイス・ヌニェス
1979-1980 4位 34 13 12 9 ---- ホアキム・リフェ
1980-1981 5位 34 18 5 11 優勝 2回戦敗退 エレニオ・エレーラ
1981-1982 2位 34 19 7 8 ---- ウド・ラテック
1982-1983 4位 34 17 10 7 優勝 ---- ---- ウド・ラテック
ジョセップ・ルイス・ロメロ
1983-1984 3位 34 20 8 6 準優勝 ---- セサル・ルイス・メノッティ
1984-1985 1位 34 21 11 2 テリー・ヴェナブルズ
1985-1986 2位 34 18 9 7 準優勝 準優勝
1986-1987 2位 44 24 15 5
1987-1988 6位 38 15 9 14 優勝 ルイス・アラゴネス
1988-1989 2位 38 23 1 4 ヨハン・クライフ
1989-1990 3位 38 23 5 10 優勝 ----
1990-1991 1位 38 25 7 6 ----
1991-1992 1位 38 23 9 6 優勝
1992-1993 1位 38 25 8 5
1993-1994 1位 38 25 6 7 準優勝
1994-1995 4位 38 18 10 10 ベスト8
1995-1996 3位 42 22 14 6 準優勝 ----
1996-1997 2位 42 28 6 8 優勝 ボビー・ロブソン
1997-1998 1位 38 23 5 10 優勝 ルイス・ファン・ハール
1998-1999 1位 38 24 7 7
1999-2000 2位 38 19 7 12 ジョアン・ガスパール
2000-2001 4位 38 17 12 9 ロレンソ・セラ・フェレール
カルロス・レシャック
2001-2002 4位 38 18 10 10 初戦敗退 ベスト4 ---- カルロス・レシャック
2002-2003 6位 38 15 11 12 初戦敗退 ベスト8 ---- ルイス・ファン・ハール
ラドミール・アンティッチ
ジョアン・ガスパール
エンリック・レイナ
2003-2004 2位 38 21 9 8 ベスト8 ---- ベスト16 フランク・ライカールト ジョアン・ラポルタ
2004-2005 1位 38 25 9 4 初戦敗退 ベスト16 ----
2005-2006 1位 38 25 7 6 ベスト8 優勝 ----
2006-2007 2位 38 22 10 6 ベスト4 ベスト16 ----
2007-2008 3位 38 19 10 9 ベスト4 ベスト4 ----
2008-2009 1位 38 27 6 5 優勝 優勝 ---- ジョゼップ・グアルディオラ
合計 優勝19回 優勝25回[9] 優勝3回 優勝4回[10]

その他国内タイトル

スペインリーグカップ
2回
1982-83、1985-86
スペインスーパーカップ
8回
1984年、1992年、1993年、1995年、1997年、2005年、2006年、2009年

その他国際タイトル

UEFAカップウィナーズカップ
4回
1978-79、1981-82、1988-89、1996-97
UEFAスーパーカップ
3回
1992年、1997年、2009年
ラテン・カップ
2回
1949年、1952年
トロフェウ・ジョアン・ガンペール:34回
1966年、1967年、1968年、1969年、1971年、1973年、1974年、1975年、1976, 1977年、1979年、1980年、1983年、1984年、1985年、1986年、1988年、1990年、1991年、1992年、1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1998年、1999年、2001年、2002年、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年
トロフェオ・テレサ・エレーラ:5回
1948年、1951年、1972年、1990年、1993年
アムステルダム・トーナメント:1回
2000年
トロフェオ・ラモン・デ・カランサ:3回
1961年、1962年、2005年

個人タイトル

(すべて、FCバルセロナ所属またはFCバルセロナ内最多記録)

歴代バロンドール受賞選手

歴代FIFA最優秀選手賞

歴代リーガ・エスパニョーラ得点王

氏名 国籍 シーズン 得点 試合数 平均得点
マリアーノ・マルティン スペインの旗 スペイン 1942-43 32 23 1.39
セサール・ロドリゲス スペインの旗 スペイン 1948-49 28 24 1.16
カジェタノ・レー パラグアイの旗 パラグアイ 1964-65 25 30 0.83
カルロス・レシャック スペインの旗 スペイン 1970-71 17 28 0.60
ハンス・クランクル スペインの旗 スペイン 1978-79 29 30 0.96
キニ スペインの旗 スペイン 1980-81 20 30 0.66
キニ スペインの旗 スペイン 1981-82 26 32 0.81
ロマーリオ ブラジルの旗 ブラジル 1993-94 30 33 0.90
ロナウド ブラジルの旗 ブラジル 1996-97 34 37 0.91
サミュエル・エトー カメルーンの旗 カメルーン 2005-06 26 35 0.74

歴代サモラ賞受賞者

氏名 国籍 シーズン 被得点 試合数 失点率
ジョアン・ヴェラスコ スペインの旗 スペイン 1947-48 31 26 1.19
アントニ・ラマレッツ スペインの旗 スペイン 1951-52 40 28 1.42
アントニ・ラマレッツ スペインの旗 スペイン 1955-56 24 29 0.83
アントニ・ラマレッツ スペインの旗 スペイン 1956-57 35 29 1.20
アントニ・ラマレッツ スペインの旗 スペイン 1958-59 22 28 0.78
アントニ・ラマレッツ スペインの旗 スペイン 1959-60 24 27 0.88
ホセ・マニュエル・ペスド スペインの旗 スペイン 1965-66 15 22 0.68
サルバドール・サルドゥニ スペインの旗 スペイン 1968-69 18 30 0.60
ミゲル・レイナ スペインの旗 スペイン 1972-73 21 34 0.62
サルバドール・サルドゥニ スペインの旗 スペイン 1973-74 22 30 0.73
サルバドール・サルドゥニ スペインの旗 スペイン 1974-75 19 24 0.79
ペドロ・マリア・アルトーラ スペインの旗 スペイン 1977-78 25 29 0.86
フランセスコ・ウルッティ スペインの旗 スペイン 1983-84 26 32 0.81
アンドニ・スビサレッタ スペインの旗 スペイン 1986-87 29 43 0.67
ビクトル・バルデス スペインの旗 スペイン 2004-05 25 35 0.71
ビクトル・バルデス スペインの旗 スペイン 2008-09 31 35 0.89

その他個人記録

通算最多得点:パウリノ・アルカンタラ(1912-1927)
357試合357ゴール(親善試合215ゴール、国王杯5ゴール、カタルーニャリーグ98ゴール、スペインリーグ35ゴール、ピレネーカップ3ゴール、バルセロナカップ1ゴール)
1シーズン最多得点:クレメンテ・グラシア(1921-22)
50試合59ゴール(親善試合35ゴール、カタルーニャリーグ19ゴール、スペインリーグ5ゴール)
リーガ・エスパニョーラ通算最多得点:セサール・ロドリゲス(1942-1955)
195ゴール
リーガ・エスパニョーラ連続得点:マリアーノ・マルティン(1942-43[11]
連続10試合18ゴール
欧州大会最多得点:リバウド(1997-2002)
31ゴール(チャンピオンズリーグ25ゴール、UEFAカップ5ゴール、欧州スーパーカップ1ゴール)
1試合最多得点ハンス・カンパー
9得点(計3回)
1901年2月10日 マヤカカップ 対フランコエスパニョール戦 (エスパニョール0-FCバルセロナ13)
1901年3月17日 マヤカカップ 対タラゴナ戦 (タラゴナ0-FCバルセロナ18)
1903年2月1日 バルセロナカップ (対戦相手不明、FCバルセロナがホームで13-0の勝利)
サモラ賞最多受賞:アントニ・ラマレッツ
5回(1951-52、1955-56、1956-57、1958-59、1959-1960)
最長無失点:ミゲル・レイナ(1972-73)
824分(リーガ・エスパニョーラ第14節の53分から第23節の67分まで)
最多出場 (カップ戦なども含む):ミゲリ(1973-1989)
通算664試合出場
リーガ・エスパニョーラ最多出場:ミゲリ(1973-1989)
通算391試合出場
国際大会最多出場:シャビ・エルナンデス(1998-[12]
通算86試合出場(チャンピオンズリーグ70試合、UEFAカップ13試合、欧州スーパーカップ1試合、クラブワールドカップ2試合)
最年少トップチームデビュー:パウリノ・アルカンタラ
15歳4ヶ月18日(1912年2月25日 カタルーニャリーグ 対カタルSC戦)
最年少得点:パウリノ・アルカンタラ
15歳4ヶ月18日(1912年2月25日 カタルーニャリーグ 対カタルSC戦で3得点。 (FCバルセロナ9 - カタルSC0)
リーガ・エスパニョーラ最年少得点:ボージャン・クルキック
17歳2ヶ月(2007年10月20日 リーガ・エスパニョーラ第8節ビジャレアルCF戦)
最長在任監督:ジャック・グリーンウェル
通算9年間 (1917-1924,1931-1933)
連続最長在任監督:ヨハン・クライフ
8年間 (1988-1996)

歴代スタジアム

歴代所属選手

カンテラ出身選手は、公式戦でのトップチーム・デビュー年度から表記)

GK


DF


MF


FW


脚注

  1. ^ その他、バレーボールやハンドボールチームも存在する。それらについてはFCバルセロナ (曖昧さ回避)参照
  2. ^ FCBarcelona.cat”. FCBarcelona.cat. 2009年1月21日閲覧。
  3. ^ 2007年までバルサCが存在していたが、バルサB(当時)のテルセーラ・ディビシオン降格にともない、消滅した。
  4. ^ 2009年8月14日現在
  5. ^ 括弧内はその他の保有国籍、あるいは出身地域の旗。またEU旗はコトヌー協定を表す。
  6. ^ カンテーラ所属選手はバルサ・アトレティック参照
  7. ^ 1955-1956シーズンから1970-1971シーズンまではインターシティーズ・フェアーズカップ、1971-1972シーズンから2008-2009シーズンまではUEFAカップ、2009-2010シーズン以降はUEFAヨーロッパリーグ
  8. ^ a b 1909-1910シーズン、1912-13シーズンはスペインサッカー連盟主催の大会とスペインサッカークラブ連合主催の大会が並存しており、FCバルセロナが優勝したのはスペインサッカークラブ連合の大会
  9. ^ うち2回はスペインサッカークラブ連合主催
  10. ^ ただし、全てUEFAカップの前身となったインターシティーズ・フェアーズカップ
  11. ^ 1942-1943シーズン第19節(1943年2月14日)から1943-1944シーズン第2節(1943年10月3日)まで。
  12. ^ 2007年12月12日現在

関連項目

外部リンク


座標: 北緯41度22分32秒 東経2度3分7秒 / 北緯41.37556度 東経2.05194度 / 41.37556; 2.05194

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