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「マハーシ・サヤドー」の版間の差分

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'''マハシ・サヤド'''(Mahasi Sayadaw, [[1904年]][[7月29日]] - [[1982年]][[8月14日]])は、[[ミャンマー]]の[[僧侶]]で、[[上座部仏教]]大長老である。なお、「マハシ」というのは、下述するように、彼がかつて指導を行っていた「マハシ僧院」のことであり、「サヤド(サヤドー、セヤドー等とも)とは、ミャンマー仏教で一般的に用いられる「長老」を意味する尊称。すなわち、「マハシ・サヤド」という名は、「マハシ僧院の長老」といった程度の意味の通称であり、彼の僧名そのものは「'''ソバナ'''」である。
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瞑想指導者として、欧米やアジアの[[ヴィパッサナー瞑想]]に多大な影響を与えた。彼の瞑想法では、呼吸の際に、腹部の膨らみとへこみの感覚に意識を集中し、その他の感覚や思考にも注意を促しながら丁寧に観察を行う。修行しやすくするために、瞑想中の[[サティ (仏教)|サティ]]を言語で確認するラベリングが彼の考案した瞑想法の最大の特徴である。
瞑想指導者として、欧米やアジアの[[ヴィパッサナー瞑想]]に多大な影響を与えた。彼の瞑想法では、呼吸の際に、腹部の膨らみとへこみの感覚に意識を集中し、その他の感覚や思考にも注意を促しながら丁寧に観察を行う。修行しやすくするために、瞑想中の[[サティ (仏教)|サティ]]を言語で確認するラベリングが彼の考案した瞑想法の最大の特徴である。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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[[1904年]]にミャンマー北部・[[シュワボー]]の西にあるセイックン村で、小作農民の両親の下に生まれる。村の僧院で6歳から教育を受け始め、12歳で[[沙弥]](見習い僧)になり、「ソバナ」(「吉祥」の意)の僧名を与えられる。[[1923年]][[11月26日]]、20歳で正式に[[比丘]]となると、4年の内に政府が実施していた[[パーリ語経典]]の全3課程を修了した。
[[1904年]]にミャンマー北部・[[シュワボー]]の西にあるセイックン村で、小作農民の両親の下に生まれる。村の僧院で6歳から教育を受け始め、12歳で[[沙弥]](見習い僧)になり、「ソバナ」(「吉祥」の意)の僧名を与えられる。[[1923年]][[11月26日]]、20歳で正式に[[比丘]]となると、4年の内に政府が実施していた[[パーリ語経典]]の全3課程を修了した。


その後、[[マンダレー]]に赴いて高名な長老たちに高度な教育を受けた後、同郷の僧に教育の支援を請われて、ミャンマー南部[[モーラミャイン]]の僧院へ赴く。
その後、[[マンダレー]]に赴いて高名な長老たちに高度な教育を受けた後、同郷の僧に教育の支援を請われて、ミャンマー南部[[モーラミャイン]]の僧院へ赴く。
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[[1938年]]に4ヶ月ほど故郷に滞在した際には、3人の弟子に初めてヴィパッサナー瞑想を指導し、好感触を掴む。その後、高齢の長老が重篤になったモーラミャインの僧院に再び戻り、支援する。[[1941年]]には、難関の上座部仏教文献の国家試験を通過し、ダンマチャリア(Dhamma-cariya、仏法の教師、教授[[阿闍梨]])の学位を得る。
[[1938年]]に4ヶ月ほど故郷に滞在した際には、3人の弟子に初めてヴィパッサナー瞑想を指導し、好感触を掴む。その後、高齢の長老が重篤になったモーラミャインの僧院に再び戻り、支援する。[[1941年]]には、難関の上座部仏教文献の国家試験を通過し、ダンマチャリア(Dhamma-cariya、仏法の教師、教授[[阿闍梨]])の学位を得る。


日本軍の[[ビルマの戦い|ビルマ進攻]]を目前にして、モーラミャインを離れ、故郷に戻ると、「マハシ僧院」にて四念処(四念住)・ヴィパッサナー瞑想の指導を行う。戦禍を免れた僧院は、多くの弟子が集まり繁栄する。彼の「マハシ・サヤド」の通称も、ここに由来する。また、弟子達に請われて、ヴィパッサナー瞑想の理論と実践を解説した著作も、この時期に書いている。
日本軍の[[ビルマの戦い|ビルマ進攻]]を目前にして、モーラミャインを離れ、故郷に戻ると、「マハシ僧院」にて四念処(四念住)・ヴィパッサナー瞑想の指導を行う。戦禍を免れた僧院は、多くの弟子が集まり繁栄する。彼の「{{要出典範囲|date=2012年8月|マハシ・サヤド}}(マハーシ長老)」の通称も、ここに由来する。また、弟子達に請われて、ヴィパッサナー瞑想の理論と実践を解説した著作も、この時期に書いている。


彼の名声は広まり、[[1947年]]、当時のミャンマー首相[[ウー・ヌ]]がヤンゴンに新しく設立された瞑想センター(現在の[[マハシ瞑想センター]])の常任指導者にマハシを招聘する。
彼の名声は広まり、[[1947年]]、当時のミャンマー首相[[ウー・ヌ]]がヤンゴンに新しく設立された瞑想センター(現在の[[マハシ瞑想センター]])の常任指導者にを招聘する。


[[1954年]]5月17日に行われた第6回総会サンガでは、マハシは質問者と最終編集者を務めた。その後、ミャンマー全域だけでなく、[[スリランカ]]、[[インドネシア]]、[[タイ]]の瞑想センター設立のために助力し、[[1972年]]までに、マハシの下で70万人を超える瞑想者を養成した。[[1979年]]にヴィパッサナー瞑想を広めるために欧米に赴き、[[マサチューセッツ州]]バリーに洞察瞑想協会(IMA)を設立し、ヤンゴンの彼の瞑想センターには瞑想修行をするために世界中から人々が訪れた。
[[1954年]]5月17日に行われた第6回総会[[僧伽|サンガ]]では、は質問者と最終編集者を務めた。その後、ミャンマー全域だけでなく、[[スリランカ]]、[[インドネシア]]、[[タイ]]の瞑想センター設立のために助力し、[[1972年]]までに70万人を超える瞑想者を養成した。[[1979年]]にヴィパッサナー瞑想を広めるために欧米に赴き、[[マサチューセッツ州]]バリーに洞察瞑想協会(IMA)を設立し、ヤンゴンの彼の瞑想センターには瞑想修行をするために世界中から人々が訪れた。


[[1982年]]8月14日に脳卒中で死去した。集中豪雨の中にも拘わらず、彼の死を惜しむ何千人もの人々が葬儀に参列した。
[[1982年]]8月14日に脳卒中で死去した。集中豪雨の中にも拘わらず、彼の死を惜しむ何千人もの人々が葬儀に参列した。
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*[[日本テーラワーダ仏教協会]]
*[[日本テーラワーダ仏教協会]]


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2012年8月1日 (水) 21:10時点における版

Mahasi Sayadaw


マハシ・サヤド[要出典]ビルマ語မဟာစည်ဆရာတော်, ラテン文字転写:Mahasi Sayadaw, 1904年7月29日 - 1982年8月14日)は、ミャンマー僧侶で、上座部仏教長老である。なお、「マハシ(マハーシ)」というのは、下述するように、彼がかつて指導を行っていた「マハシ僧院」のことであり、「サヤド(サヤドー、サヤドウ、セヤドー、サヤードー等とも)」とは、ミャンマー仏教で一般的に用いられる「長老」を意味する尊称。すなわち、「マハシ・サヤド[要出典]」(マハーシ・サヤドー[1]、マハーシ・サヤードー[2])」という名は、「マハシ僧院の長老」といった程度の意味の通称であり、彼の僧名そのものは「ソーバナ」(ビルマ語:သောဘန, 転写:Sobhana. ビルマ語での敬称を付けて・ソーバナ[3]とも)である。マハーシ長老とも呼ばれる。

瞑想指導者として、欧米やアジアのヴィパッサナー瞑想に多大な影響を与えた。彼の瞑想法では、呼吸の際に、腹部の膨らみとへこみの感覚に意識を集中し、その他の感覚や思考にも注意を促しながら丁寧に観察を行う。修行しやすくするために、瞑想中のサティを言語で確認するラベリングが彼の考案した瞑想法の最大の特徴である。

生涯

1904年にミャンマー北部・シュワボーの西にあるセイックン村で、小作農民の両親の下に生まれる。村の僧院で6歳から教育を受け始め、12歳で沙弥(見習い僧)になり、「ソーバナ」(「吉祥」の意)の僧名を与えられる。1923年11月26日、20歳で正式に比丘となると、4年の内に政府が実施していたパーリ語経典の全3課程を修了した。

その後、マンダレーに赴いて高名な長老たちに高度な教育を受けた後、同郷の僧に教育の支援を請われて、ミャンマー南部モーラミャインの僧院へ赴く。

そこで彼は、僧院で教育を行う傍ら、かねてより関心を抱いていた、パーリ語経典・経蔵中部の『念処経』(四念処経、Mahasatipatthana sutta)の「四念処」(四念住、satipatthana)の研究を進めた。1931年にはモーラミャインでの文献指導から退き、近郊のタトンにて、高名なミングォン・ジェタオン・サヤドの下で集中的にヴィパッサナー瞑想の修行をした。ミングォンの指示で北部ミャンマーの人里離れたサンガインヒルにて、アレタヤ・サヤドと弟子で森林瞑想指導者として名高いセロン・サヤドの指導の下、修行を行う。

1938年に4ヶ月ほど故郷に滞在した際には、3人の弟子に初めてヴィパッサナー瞑想を指導し、好感触を掴む。その後、高齢の長老が重篤になったモーラミャインの僧院に再び戻り、支援する。1941年には、難関の上座部仏教文献の国家試験を通過し、ダンマチャリア(Dhamma-cariya、仏法の教師、教授阿闍梨)の学位を得る。

日本軍のビルマ進攻を目前にして、モーラミャインを離れ、故郷に戻ると、「マハシ僧院」にて四念処(四念住)・ヴィパッサナー瞑想の指導を行う。戦禍を免れた僧院は、多くの弟子が集まり繁栄する。彼の「マハシ・サヤド[要出典](マハーシ長老)」の通称も、ここに由来する。また、弟子達に請われて、ヴィパッサナー瞑想の理論と実践を解説した著作も、この時期に書いている。

彼の名声は広まり、1947年、当時のミャンマー首相ウー・ヌがヤンゴンに新しく設立された瞑想センター(現在のマハシ瞑想センター)の常任指導者に彼を招聘する。

1954年5月17日に行われた第6回総会サンガでは、彼は質問者と最終編集者を務めた。その後、ミャンマー全域だけでなく、スリランカインドネシアタイの瞑想センター設立のために助力し、1972年までに70万人を超える瞑想者を養成した。1979年にヴィパッサナー瞑想を広めるために欧米に赴き、マサチューセッツ州バリーに洞察瞑想協会(IMA)を設立し、ヤンゴンの彼の瞑想センターには瞑想修行をするために世界中から人々が訪れた。

1982年8月14日に脳卒中で死去した。集中豪雨の中にも拘わらず、彼の死を惜しむ何千人もの人々が葬儀に参列した。

脚注・出典

関連項目