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神田ろ山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

神田 ろ山(かんだ ろざん)は、講釈師名跡

初代

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本名、小林寅吉(小林成光説もある)[1]1890年(明治23年)4月3日 - 1946年(昭和21年)6月4日[1]。享年56。

東京浅草蔵前の葬儀屋の子として生まれる[1]1907年3代目神田伯山に入門[1]。蘭山を名乗った後、1919年頃にろ山と改名[1]。1928年頃、師の十八番「清水次郎長伝」を浪曲師の2代目広沢虎造に教えたために、破門となる[1]。1931年、破門を解かれ、初代神田山陽5代目神田伯龍とともに、伯山門下の三羽烏と呼ばれた[1]わらわし隊参加者。

3代目神田伯山の芸風と演題をもっとも多く継承した人物とされ[1]、師の十八番「清水次郎長」を師同等に演じることで有名だった[2]。ただし、伯山自身の指導を受けたのは「夕立勘五郎」だけで、他は聞き覚えだったという[1]

2代目

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2代目 神田かんだざん
本名 岩田清司
生年月日 1908年8月13日
没年月日 (1984-01-01) 1984年1月1日(75歳没)
師匠 初代神田ろ山
名跡 1.神田晴山(1925年 - 1937年)
2.神田桜山(1937年 - 1946年)
3.2代目神田ろ山(1946年 - 1980年)
4.神田寿山(1980年 - 1984年)
活動期間 1925年 - 1984年
活動内容 講談師

本名、岩田清司[3]1908年(明治41年)8月13日 - 1984年(昭和59年)1月1日[3]

東京浅草に生まれる[3]1925年、初代ろ山に入門して晴山、1937年、桜山に改名[3]1946年、初代ろ山が死去し2代目ろ山を襲名[3]1980年、病に倒れ、神田知山(3代目ろ山)に名跡を譲り、寿山を襲名する[3]

1970年、講談協会理事、1973年、講談組合委員を務めた[3]

侠客物を得意とし、「新蔵兄弟」は2代目以外に演者がいなかった[3]松本清張の小説を講談に仕立てたが、評判は良くなかった[3]

3代目

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3代目 神田かんだざん
本名 河野 利雄
生年月日 1919年1月16日
没年月日 (1989-10-09) 1989年10月9日(70歳没)
出身地 日本の旗 日本埼玉県
師匠 初代神田ろ山
名跡 1.神田ち山(1937年 - 1940年
2.神田智山(1940年 - ?)
3.神田知山(不詳)
(この間廃業)
4.神田知山(1972年 - 1980年)
5.3代目神田ろ山(1980年 - 1989年)
活動期間 1937年 - ?
1972年 - 1989年
活動内容 講談師
主な作品
痴楽綴り方狂室(4代目柳亭痴楽の十八番)
受賞歴
文化庁芸術祭賞(1986年)

本名、河野利雄[4]1919年(大正8年)1月16日 - 1989年(平成元年)10月9日[4]

埼玉県鳩ヶ谷に生まれる[4]。16歳と17歳の時、父母を亡くす[4]1937年初代神田ろ山に入門、「ち山」の名を与えられるが、間違えやすいため「知山」と改名[4]1940年、戦争で負傷して帰国、「智山」と改名して復帰[4]。戦後、再び「知山」に改名[4]。その後、司会業に転じるが、1972年復帰する[4]1980年、3代目「ろ山」を襲名した[4]

1986年文化庁芸術祭賞受賞[4]

侠客物や世話物、文芸講談を得意とし、人情表現に優れた[4]落語家4代目柳亭痴楽の十八番「綴り方狂室」は、ろ山の作という[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 吉田修『東都講談師物語』中央公論事業出版、2017年6月、150-152頁。 
  2. ^ 有竹修二『講談・伝統の話芸』p.142
  3. ^ a b c d e f g h i 吉田修『東都講談師物語』中央公論事業出版、2017年6月、153-156頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k 吉田修『東都講談師物語』中央公論事業出版、2017年6月、156-159頁。